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2018-08-21 00:00
IMFは『最後の貸し手』になりうるのか
池尾 愛子
早稲田大学教授
「国際通貨基金(IMF)は、少なくとも唯一の『最後の貸し手』としては頼れない」ことは、1997年の東アジア通貨・金融危機から東アジア諸国が学んだ教訓であるといえる。先日のボストンでの第18回世界経済史会議において、1993年の世界銀行レポート『東アジアの奇跡』(東アジアの経済成長と政府の成長への関与を称えた)と1997年の危機が、何人かの報告者によって言及されていた。1997年は、IMFが緊急融資に際して最も厳しい構造改革を条件(conditionality)として課す『構造マクロ調整策』を実施していた時期であった。
1997年7月2日にタイ・バーツが、長年にわたる米ドルへのペグ政策を突然やめたことは、周辺諸国に大きな動揺をもたらし、同様の通貨政策の変更を迫ることになった。タイがIMFパッケージの支援を受けたあとも動揺は続いた。バーツの次に変調をきたしたのは、インドネシア・ルピア、フィリンピン・ペソ、マレーシア・リンギであった。10月末か11月初めにインドネシア政府が、IMFに支援を求めるはわけではないが、IMFを同国に招待したことはどのような意味をもったのか――同国にとってマイナスに作用したのではないか。
インドネシア政府は結局、IMFの緊急融資を受けることになった。その「前提条件」(pre-conditions)として、「16の銀行を直ちに閉鎖すること」「預金は部分的に保証すること」等を提示された。これらの政策はインドネシアにとって前例のないものであった。はたして同政府がこれらの政策をIMFの指示通りに実施すると、「銀行取付け」や「資本逃避」が起こり、預金者や投資家のあいだにパニックが広がったのであった。その直前に石油輸出国機構(OPEC)がジャカルタでの定例会議(session)において石油生産割当の拡大を決めていて、会議参加者の一部がIMFの地元スタッフと会っていた。12月には韓国まで通貨危機の連鎖に巻き込まれた。インドネシアは同年から1998年にかけて4回の(改革)同意書をIMFに提出し、この危機で最も苦しむことになった。(そのインドネシアでスポーツのアジア大会が現在開催されていることは、大変喜ばしく感じられる。)
それから20年近く、東アジアでは関連する研究セミナーや会議が数多く開催され、「何が起こったのか」、「何が問題だったのか」、「危機の発生・伝染を防ぐためには何が必要か」が議論され整理されていった。「(通貨・金融)危機に陥って緊急支援を求める国に対して、支援と同時に直ちに構造改革の開始を要請する」IMFの政策に問題があったことが、共通認識になっているといってよい。東アジアではIMFにできる限り頼らなくても済むように、チェンマイ・イニシアティブ(通貨スワップ協定)、経済批評・政策対話(銀行共同監視制度)を整え、アセアン+3マクロ経済研究所(アムロ)を設置し国際機関として育ててきたのである。さらにアメリカ連邦準備制度理事会と通貨スワップ協定を結び、アメリカに『最後の貸し手』機能を期待する国々が登場しているものの、アメリカは希望する全ての国々と通貨スワップ協定を結んできたわけではない。また1997年危機をきっかけに組織されていったG20に期待を寄せる国もある。IMFに頼らなくてもすむ措置の必要性を最初に認識し、実践に移し始めたのは、現実的対処を迫られてきた東アジア諸国であるといってよいのである。(以上は、私のボストン会議での報告要旨でもある。)
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