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2017-11-21 00:00
(連載1)「中東のバルカン半島」レバノンをめぐる宗派対立
六辻 彰二
横浜市立大学講師
11月10日、シリア軍は国内のIS最後の拠点アブカマルを奪還。ISの勢力が衰退しつつあります。しかし、中東情勢は混迷の度を深めており、スンニ派の中心地サウジアラビアとシーア派の大国イランの間の対立は、その主な軸となっています。この対立はシリア、イエメンなど中東各地に飛び火してきましたが、レバノンは「次の戦場」の最有力候補ともいえます。11月10日、米国のティラーソン国務長官はサウジとイランに対し、「レバノンを代理戦争に用いないよう」警告。米国が伝統的な同盟国であるサウジと、長年の敵であるイランの双方に呼びかけることは異例です。多くの日本人にとって縁遠いこの小国は、しかし中東をさらに不安定化させる導火線になりかねないのです。
サウジアラビアとイランはいずれもイスラームの大国ですが、それぞれスンニ派、シーア派の中心地として犬猿の仲。イスラーム圏での影響力を競い、最近では両者の代理戦争ともいうべき衝突が中東各地でみられます。とりわけ、イエメン内戦はその激化が懸念される問題です。イエメンでは2015年、シーア派の武装組織「フーシ派」が首都を占拠。これに対して、イエメン政府を支援するサウジなどスンニ派諸国が空爆などを開始する一方、イランはフーシ派を支援しているといわれます。こうして、もともと国内の権力闘争だったイエメン内戦は、サウジとイランの支援によって激化。UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)によると18万人以上が難民となり、28万人以上が国内で避難する事態となっています。11月4日、フーシ派はサウジアラビアの首都リヤドに向かって短距離弾道ミサイル、ボルケーノH-2を発射。サウジ政府の発表によると、リヤド近郊の国際空港そばの人口密集地帯を狙ったもので、飛来した弾道ミサイルのうち一発をパトリオットミサイルで迎撃したといいます。今回、フーシ派による攻撃で用いられた短距離弾道ミサイルは、北朝鮮から輸入したものとみられます。イエメンが北朝鮮からミサイルを輸入していることは、かねてから報告されていました。相手を構わずミサイルを売る北朝鮮の存在は、中東の火種をさらに大きくしているといえます。ともあれ、今回の攻撃を受けて、サウジアラビアはイランを非難したうえで、10日にはフーシ派の拠点となっているイエメンの首都サヌアにある国防省の庁舎を空爆。イエメン内戦は泥沼の様相を呈しています。
イエメンで顕在化したサウジとイランの対立は、冒頭に述べたように、レバノンにも波及しつつあります。その背景には、レバノンが中東でも特に複雑な宗派構成をした国であることがあげられます。レバノンは人口約600万人の小国ですが、数多くの宗派がモザイク状に分かれて暮らしており、この複雑な宗派関係が発火しないよう、独立以来人口に比例して宗派ごとに政府の役職や議会の議席を配分する「宗派体制」が採用されてきました。大統領は当時人口が一番多かったマロン派キリスト教徒に、首相は二番目に多かったイスラームのスンニ派に、国会議長は三番目に多かったイスラームのシーア派に、といった具合です。しかし、1960年代にはムスリム人口が増加。人口に応じて議席配分などの変更を求めるムスリムと、既得権益を守ろうとするキリスト教徒の間で対立が深刻化するなか、イスラエルの支配に抵抗するパレスチナ・ゲリラ(ファタハ)が流入したことで、宗派間の人口バランスがさらに変化しました。これをきっかけに、1975年にはキリスト教徒とムスリムの間の衝突が発生(レバノン内戦)。「宗派共存のモデル」と目されていたレバノンは、一転して戦場と化したのです。レバノン内戦の展開は、周辺国の思惑が渦巻くものとなりました。レバノン内戦の発生を受けて、翌1976年にシリア軍はキリスト教徒中心の政府を支援する形で介入。これにより、「キリスト教徒対ムスリム」という構図で始まったレバノン内戦には「ねじれ」が生まれました。アサド政権はファタハがレバノンで勢力を伸ばし、これを「乗っ取れ」ば、イスラエルとの戦争にシリアも巻き込まれることを恐れ、敢えてムスリム側を攻撃したといわれます。さらに、パレスチナ解放を目指すファタハ(スンニ派)の拠点がレバノンにできるのを嫌ったイスラエルも、1982年にキリスト教徒を支援する形で侵攻(ガリラヤの平和作戦)。イスラエル軍の猛攻の前に、ファタハはレバノンから撤退せざるを得なくなりました。ところが、イスラーム諸国、とりわけファタハと宗派で共通するサウジなどスンニ派諸国のほとんどは、ファタハ救援に割って入ることはありませんでした。イスラーム諸国は「『パレスチナ解放』を共通の目標として共有している」というタテマエであっても、実際には中東随一の軍事力をもち、米国の支援を受けるイスラエルと正面から衝突する気はなかったのです。
その一方で、シーア派のイランやシリアはレバノン内戦で異なる動きをみせました。イスラエル軍の侵攻を受け、1982年にはイランの支援のもと、レバノン南部にイラン型のイスラーム共和制の樹立を目指すヒズボラが発足。ヒズボラはイスラエル軍への攻撃を続け、イスラエルや米国から「テロ組織」に指定されました。これに対して、シーア派で共通するシリアのアサド政権は、イランがヒズボラ支援のためにシリア国内を通過することを容認する一方、マロン派キリスト教徒を中心とする現体制を支援して、2005年まで軍を駐留させました。アサド政権にとっては「ファタハにつき合わされて」であれ「イランにつき合わされて」であれ、イスラエルとの全面戦争に突っ込むことを避ける必要があり、そのために宗派が異なっても、レバノン政府を監督する立場に立つ必要があったといえます。第一次世界大戦以前のバルカン半島では、ゲルマン系やスラブ系の民族意識が高まり、それぞれをオーストリア・ハンガリー帝国やロシア帝国が支援するなか、いつ爆発するか分からない「バルカンの火薬庫」と呼ばれていました。国内が数多くのグループに分かれ、それぞれを外部の国が支援することで対立が激化してきたことから、レバノンは「中東のバルカン半島」と呼べるかもしれません。(つづく)
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