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2017-10-18 00:00
コスモポリタンの前提は帝国主義
倉西 雅子
政治学者
最近、ハーバード大学の教授が日本について語るというテーマのネット記事をよく目にします。江戸時代の再評価や品格ある国家論など、扱う内容は様々なのですが、これらの教授の“指南”には、一つの共通点が見受けられます。それは、“日本は、より開かれた国にならねばならない”というものです。いわば、現代の日本開国論なのですが、日本国は、先進国として少子高齢化、人口減少、並びに、経済低迷といった諸問題に真っ先に直面するからこそ、海外から様々な異なる文化や考え方を持った人々を受け入れ、異質なものの接触がもたらす化学反応的なダイナミズムを活用し、これらの諸問題を克服すべきと説いているのです。多様性こそ、問題解決と発展の鍵であると…。登場する凡そ全ての教授陣が画一的な見解を述べる状況に、むしろ多様性の喪失と思想の画一化を感じさせるのですが、果たして、この日本国に対するコスモポリタン化の薦めは適切なのでしょうか。
おそらく、コスモポリタンの薦めは、日本国のみならず全世界に対するものなのでしょう。しかしながら、この主張には、一つの重大な問題点があるように思えます。それは、コスモポリタン、即ち“世界市民”とは、そもそも帝国の枠内を前提としていることです(特定の国に属さないのではなく、世界帝国に属している…)。この言葉の起源は、アレキサンダー大王による世界征服事業にあり、紀元前4世紀にギリシャから現在のアフガニスタンにまで及ぶ広大な版図を有する、多様な民族を包摂する大帝国が出現した歴史に因ります。帝国内には国境はなく、それ故に、帝国内の様々な民族や文化が混ざり合い、融合し得る状況が出現したのです。さしもの大帝国も大王の早すぎる死と共に短命に終わり、帝国も分割され、やがて消滅するに至りますが、この時誕生したコスモポリタンの概念は、思想の世界においてのみ理想郷として生き残り、今日にまで影響を残すこととなったのです。
ところが、今日の国際社会を眺めて見ますと、そこには、国民国家体系という、古代の帝国とは全く異なる分散型の体系が成立しています。個々人は、“世界市民”=帝国市民ではなく、例外的に重国籍のケースはあるものの、各自はそれぞれ特定の国に属し、自らが国籍や市民権を有する国との間に権利・義務関係を構成しています。現実が国民国家体系にありながら、その同一の空間において帝国由来のコスモポリタン主義を実践しますと、当然に、現行の国際体系との不整合により、政治的リスクや混乱が生じます。コスモポリタンとは、今日よりも社会が複雑ではなかった時代において、一瞬しか存在しえなかった世界帝国を前提としている“あだ花”であり、地表に既に国境線が引かれている状態でのコスモポリタン化とは、社会対立や摩擦を引き起こす、あるいは、覇権主義的な諸国や勢力による移民を介した間接支配を許す事態になりかねないのです。
このように考えますと、日本国に対する開国の薦めは、現実、並びに、付随するリスクを無視した相当に乱暴な要求と言うことになりましょう。アカデミズムやマスメディアの世界でも、国民国家体系を克服すべき“旧体制”と見做し、その破壊を奨励する見解も見受けられますが、こうした意見は、日本国を含めた自由な諸国や人々を、新たなる帝国主義者に引き渡す手引きとなるのではないかと思うのです。
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