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2017-07-26 00:00
“文明の衝突”ではなく“文明と野蛮の衝突”では?
倉西 雅子
政治学者
イギリスのEU離脱、並びに、アメリカでのトランプ政権の誕生を背景に、サミュエル・ハンティントン氏が提唱した文明の衝突論が再び議論の俎上に上るようになりました。メディアでも盛んにリベラル派の知識人の見解が取り上げられ、“文明の衝突”を避ける道として、多様性を認める寛容の精神を読者に説いています。
しかしながら、今日、国際社会が直面しているのは“文明の衝突”なのでしょうか。メディアに颯爽と登場してくる知識人は、何の疑いもなく異文明間の衝突を議論の前提に自説を展開しています。ところが、現実を直視しますと、今日の国際社会で起きている問題の多くは、異なる文明間の衝突ではなく、文明と野蛮との間の衝突に思えてならないのです。ここで確認すべきは、現代における“文明”とは何か、という文明の定義と判別基準です。今日において人々が安心して生きるためには、まずは、個人であれ、集団であれ、自他の主体性(存在そのもの…)の一般的な承認を要します。超越的な視座に位置する法によって、全ての構成主体が承認されなければ、統治上の価値とされる民主主義も、自由も、法の支配も、そして平等・公平も成り立たないのです。現代の文明は、主客両面における主体性承認を普遍的な制度として実現していると言うことができるでしょう。
このような現代の文明の定義に照らしますと、“文明”の対義語としての“野蛮”は、“他者の主体性の一方的無視”を意味します。イスラム教も共産主義も、異性(女性)の主体性の軽視や無視、異教徒や異なる階級の人々の主体性の抹殺を肯定している点において、“野蛮”に分類されると言えます。北朝鮮の政治イデオロギーである主体思想も、独裁者の主体性を絶対化する一方で、国民を含めた他者の主体性を認めない野蛮思想に他なりません。そして、現代の人類が直面している問題を“文明の衝突”と見なしているリベラル派の立場は、個人のレベルでは基本権や多様性の尊重を唱えても、集団のレベルでは、国家の主権や民族の自決権は容認していません。この意味において、リベラル派は、国家や民族(国民)の主体性を一方的に無視しているのです。否、国家の歴史や伝統、そしてこれらに基づくナショナリズムに対する排他性と迫害の容認においては、イスラム教や共産党などと然程の差はありません。もしかしますと、それは、“無自覚の野蛮”、あるいは、“隠れ野蛮”と称した方が適切であるかもしれないのです。
異なるとはいえ、文明同士の衝突であれば、何れが勝っても文明は残りますが、文明と野蛮との闘いであれば、野蛮の勝利は文明の消滅を意味します。文明と野蛮の衝突と野蛮側の勝利こそ、人類文明の真の危機と言えるのではないでしょうか。
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