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2017-02-10 00:00
へーゲルの「アジアに見られてきた専制体制」に学ぶ現代アジア
真田 幸光
大学教員
私は地球市民です。また、私はアジアに住む地球市民です。そしてまた、私はアジアの中の日本に住む地球市民です。その他の地域の地球市民との意思疎通と交流は、「世界の共通言語である英語、基軸通貨、国際的な法律基準、世界的なモノづくり基準、そして世界的な会計基準」といった、所謂「国際標準」を通じて行っており、その基軸には、私も私以外の人も「性善説」に基づいて「他者を尊重し、その潜在的な違いがあることは理解しつつ、しかし、国際標準に従って、意思疎通を図った上で、人間としての倫理観を最大限に守りながら交流していくことにある。」と私は確信しています。
しかし、そうした一方で、人間は「生き残りたいとする生命欲という自然の摂理の中では、弱肉強食型の強者の論理」が通り易く、そこに「国際標準そのものが、強者の論理によって構築されてしまい、結果として、必ずしも公明正大なるものにはならない」といった危険性があり、だからこそ「特に強者は弱者をいたわる心を以って、国際標準を構築していく必要性がある」と私は考えています。
こうした中、私は、しばしば「へーゲル」という人のアジアに関する見方に触れることがあります。へーゲルは、物事を体系化していく力に優れ、様々なことを「簡潔明瞭に表現していく力に優れている人」であると私は認識していますが、そのヘーゲルは「アジアに見られてきた専制体制」に関して、以下のようなポイントで体系化しています。即ち、専制君主共同体に対する貢納性がある。税金を納めたり、賦役、軍役によって、土地の代償とする。また、専制共同体は、その構成員に対して食糧生産に必要な灌漑対策、河川の整備、軍事的保護などを請け負う。最後に、全自然は人々の宗教的な尊崇の対象となる、といった形で纏め、表現しています。
日本を含むアジアの社会には、本質的には、こうした自然を崇拝しつつ、互いを尊重する基盤があるはずでありますが、何故か、アジア人同士となると対立する、そしてその対立の隙間に他の地域の地球市民がつけ込み、アジアの中での対立を更に深めるように動いているように思えてなりません。総じて言えば、相対的には類似した共通項を持つアジア人同士の連携が見られてもよい時代になっていると私は思うのですが…。現実は難しいようです。
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