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2016-12-20 00:00
(連載2)保護主義は反知性的か?
倉西 雅子
政治学者
これらの二つの全く異なる自由の概念に照らして今日の新自由主義、即ち、行き過ぎたグローバリズムを見てみますと、一つの疑いが脳裏を過ります。それは、今日の新自由主義は、“絶対的な自由”を求めているのではないか、という疑いです。例えば、“例外なき関税ゼロ”といった自由主義のルールは、現実には、相互に劣位分野の淘汰を伴うため、高レベルでの自由化を目指したTPPでさえ妥協せざるを得ませんでした。
しかも、自由化ルールに全ての諸国が従うわけではなく、中国のように、自国の国境規制は維持する一方で、他国の自由化に便乗する国も存在しています。このことは、貿易における“自由化”のルールが、実際には、一部の人々の権利や利益を損なっている現実を示しています。ルールの存在意義が“規律ある自由”のために存在しているとしますと、“絶対的な自由”のルール化は、“万民の万民に対する闘争”状態への逆戻りを意味することにおいて、ルールによるルールの否定という重大なトートロジー(自家撞着)を内包しているのです。
こうした“利己型自由”と“調和型自由”とでも表現すべき自由の概念の違いに注目しますと、保護主義を単なる反知性的として切り捨てる態度もまた、反知性的な傲りともなりましょう。
ここにも、第二のトートロジーが見られるのですが、“絶対的自由”が他者の自由や権利に対する侵害性を含意する限り、国民、勤労者、消費者、劣位産業、内需型産業…といった多様な立場への包括的な考慮を提起することは、むしろ、曲がり角に佇む今日にあってこそ、必要なことではないかと思うのです。(おわり)
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