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2016-11-27 00:00
(連載1)アダム・スミスについて
池尾 愛子
早稲田大学教授
2014年4月に出た英文拙著『日本での経済科学の歴史:20世紀における経済学の国際化』(A History of Economic Science in Japan: The Internationalization of Economics in the Twentieth Century)のペーパーバックが今年4月に利用可能になっている。海外の学会、国際会議、セミナーで発表し、質問やコメントを反映させて改訂を重ねた諸論文、専門誌に掲載された緒論文を、アップデイトして、自分で編集するようにして1冊の書籍にまとめ上げた。そして今月、ヨーロッパの『比較社会学』(Comparative Sociology)という雑誌に、学生時代の最初の2年間に物理学と経済学を勉強した後、中国学に転向した研究者が拙著の内容をよく理解した書評を載せてくれた。しかしながら、今年半ば、出版社から、「企業や財団にまとめて買い上げてもらう」ことを示唆されたので、海外での売れ行きに比べて、日本国内での売れ行きが芳しくないのかもしれない。日本研究でも西洋研究でも英語での発信をめざす研究者には役立つと信じているので、論争になるかもしれない点を紹介させていただきたい。
英語圏で経済学の父とされるアダム・スミスは拙著本文には登場しない。英語圏でスミスについて公開講演会を英語で催すと100-200人の一般聴衆が集まると聞いている。「日本で、英語でスミスの講演会を催すといかがですか」と尋ねられたことがある。「10-20人の専門家は集まるかもしれませんが、一般の日本人はまず出席しないと思います。日本語での講演会ですと状況は違ってきます」と応じようとすると、「日本語ではだめです」と遮られた。スミスは英語で語ってほしいようであった。
1990年頃と2008年頃に、アメリカの大学の学部生向け授業「18世紀経済思想」(英文古典を読ませる授業。スミスで終わり、『国富論』の英語が最も難しい)を聴講したことがある。教師は英文古典に見え隠れする宗教性や嫉妬、情熱を読み取るように英語母語話者の学生たちを導いていた。学生たちは教師に導かれて、最後には各々のスミス解釈を楽し気に披歴していたのが印象に残った。英語圏の授業では通常、スミスの原典をそのまま使い、「スミスは英語で考察してほしい」という。母語が異なるときには、深い溝が横たわるのである。(経済科学の論文は、日本語で考察した後、英語の論文にしても大丈夫なのである。)
実際、スミスの英語原典を紐解くと宗教色がかなり濃いのであるが、和訳では宗教色はほとんど消えている。英語で書くときには、英語での伝統に最も注意を払うことになる。私が知る限り、英語圏では、同時代の著作家たちと比較してのスミスの特色は「(神の)見えざる手」にある、つまり、競争による経済活動の相互調整メカニズムにあるとされている。2008年頃には、「無能な参加者は市場から退場させられる」との表現をよく耳にした。2011年の国際経済学会北京大会ではイングランド銀行のエコノミストが、「米大手投資銀行リーマン・ブラザーズが破綻して市場から去ると、経済が危機に陥った。つまり、『見えざる手』はもはや働かなくなった」と(中国人の若手経済学者・大学院生もいる会場で)語っていた。(つづく)
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