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2016-09-16 00:00
(連載2)信教の自由について
緒方林太郎
衆議院議員(民進党)
例えば、フランスでは1905年にかなり厳格な政教分離原則を決めた政教分離法があります。その中では、公共の秩序に反しない限りの内心の自由と厳格な政教分離が書かれており、その上で国家の宗教への関与を厳しく制限しています。その背景には、ただ「信仰する自由」を保障するだけでは克服できないくびきがあったという事です。それが信教の自由の文脈で言えば「信仰しない自由」であり、また、国家レベルでは「政教分離」であるという事でしょう。
実際に、フランス共和国は現在でも非常に宗教との距離感には慎重でして、ゆめゆめ国家が宗教に関与する事が無いよう、個人の信教の自由(信仰し、又はしない自由)を害しないよう細心の注意を払います。そして、フランスで国家と宗教との関係を論じる際、最も使われる言葉は「liberte de croyance(信仰の自由)」ではありません。「laicite(世俗性、非宗教性)」という言葉です。よく報道でも使われる言葉です。
ただ、難しいのが、信仰する自由と政教分離原則がぶつかるケースです。学校に女子生徒がブルカを被って登校する事をフランス政府は禁じました。公共のスペースに宗教性を持ち込んではならないという政教分離原則を持ち出しての論理構成でした。フランス社会にあるアンチ・イスラム的な雰囲気を政治的に持ち込んだような個人的印象がないわけではありませんが、いずれにせよ、究極の所で信仰する自由(ブルカを被る自由)と政教分離原則が対立してしまう事があるわけです。
このあたりの背景抜きに「何を信じようが勝手ではないか」だけが先走りしてしまうことにはとても懸念を覚えます。特に国家の指導者がそれだけを主張するようになってはいけません。国家と宗教との関係は歴史的に微妙なものである以上、信仰する自由には、その対として信仰しない自由がある事を常に認識しておかなくてはなりません。具体例を出すと色々と難しいので、理念だけを書きました。この辺りは憲法審査会でも議論になるでしょう。(おわり)
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