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2016-04-04 00:00
“偉大なアメリカ”とは?
倉西 雅子
政治学者
今年のアメリカ大統領選挙は、共和民主両党におきまして、過去に例を見ない程の予想外の展開となっているようです。共和党では、泡沫候補者と見なされていたトランプ氏が、スーパーチューズデーで7州を押さえ、序盤戦でのリードを保っています。“偉大なアメリカを取り戻す”がトランプ氏のスローガンの一つです。それでは、“偉大なアメリカ”とは、一体どうのようなアメリカなのでしょうか。
トランプ氏のこのスローガンに対して、一方の民主党の最有力候補であるクリントン氏は、“『アメリカを再び偉大な国にする』必要はない。アメリカは、偉大になるのを止めることはない”と述べて応酬しております。“偉大なアメリカ”は、大統領選の論点ともなっているのです。少なくともクリントン氏は、その後に続く演説内容からしますと、アメリカの内政を念頭において“偉大”という表現を使っているのでしょうが、国際社会から見た“偉大さ”の評価基準は、また別のところにあるように思えます。
オバマ政権の“弱腰外交”が、中東やアジアにおいてISや中国の台頭を許したとする批判は、単にアメリカの国力の衰退や影響力の低下のみならず、アメリカが纏ってきたイメージの変化にも起因しています。中国の習政権も、目下、“中国の夢”を掲げて覇権主義を追求していますが、少なくとも、第一次世界大戦後のアメリカの行動には、偽善との批判を受けつつも、“中国の夢”には欠落している一種のヒロイズムがありました。スーパーマンに象徴されるような悪を挫く“正義の味方”のイメージです。国際社会における“正義”というものが、公平な法の下で、全ての諸国と人々の権利と自由を擁護することにあるとしますと、国連の常任理事国を務め、世界中の悪事に目を光らせるアメリカは、“偉大なる”国際秩序の擁護者であったのです。
第二次世界大戦後における唯一の超大国としてのアメリカが、その比類なき国力を背景として、曲がりなりにも“正義の味方”の役割を担ってきたこものの、財政問題や中間層の崩壊を前にして、“偉大”の意味が、国内優先に変化したことは致し方がないのかもしれません。その一方で、今般の大統領選挙において、共和党であれ、民主党であれ、善き国際社会の構築にむけたアメリカの“偉大”なるリーダーシップを訴える候補者が殆ど見られないことには、一抹の寂しさを感じるのです。
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