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2016-02-10 00:00
進歩主義者(プログレシブ)と市場の失敗
池尾 愛子
早稲田大学教授
市場が経済活動の相互調整の機能を見事に果たしてくれ、政府は経済過程に介入しない方がよい、つまり自由放任でよいのならば、経済学は大学での教育科目にも研究対象にもならなかったであろう。2015年末に出版された『市場の失敗と経済学』(Market Failures in Context, edited by A Marciano and S. Medema)は、19世紀終盤のイギリスで貿易政策に関する謬見に対して反論することから積極的な議論が始まり、さらにアメリカにおいて、市場がうまく機能しないケースを取り上げて、その解決策が提示されることによって、経済学が政治的地位を獲得したとする。本書での過去の議論の中に、現代の議論と重なる部分があるので適宜拾い上げて紹介しておきたい。
19世紀後半、イギリスでは輸入品に関税をかけていなかった。しかし、同世紀転換期から国内の一部労働条件の悪化や、一部労働者・無職者の困窮が改めて社会問題となり、輸入関税や移民規制の提案が浮上し始めた。この論争では当初、welfare(福祉・厚生)、happiness(幸福)、prosperity(繁栄)がほぼ同じ状態を意味するように使われていたとの指摘が興味深い。英語でも言葉の意味の変化に注意を要する。経済学者のA.C.ピグーが当初自由貿易論者であったものの、国内問題に目を転じ、経済的福祉、国民分配分の拡大と安定などといった専門用語を整理して分析装置を整えることになっていく。(イギリスなどは、1911年から日本の関税自主権を完全に認めることになる。)
「アメリカで経済学が科学的・政治的地位を獲得したのは、1885-1918年の進歩主義時代(Progressive Era)であった」と主張する章(T.L. Leonard)も興味深い。この時代、経済社会の変化が大きく嵐に巻き込まれたような状態になっていた。買収合併により企業の数は減りその規模が大きくなる一方、一般の人々にも経済的進歩が感じられていた。当初より、やはり労働条件の一部悪化や一部労働者・無職者の困窮などが社会問題として認識されていたとはいえ、どう介入すればよいのかがわからず、結局ほとんど無規制の自由放任状態であったという。そこにプログレシブ(Progressive:経済的進歩の擁護者であり、その恩恵は人々に行き渡るべきであるとする)を信条とする人々が登場して、規制者・介入者としての役割を政府に付与することになったという。(現在の米民主党の大統領候補者選で、「どちらの候補者がよりプログレシブか」が論争されている。)
市場による価格メカニズムが民間経済活動の相互調整に失敗するという「市場の失敗」については、アメリカで制度学派が中心となって議論が展開されてきたとされる。独占の問題は、企業規模が大きくなると企業が価格支配力を持つことである。大きな装置の方が効率的なときには、自然独占が認められた。公害・環境問題は私的経済活動が社会的費用を発生させると捉えられた。公共財の供給は政府の仕事である。1929年からの大不況(Great Depression)、2008-09年の大景気後退(Great Recession)も「市場の失敗」である。最後の事例以外は、私が学部生の頃(1970年代)の日本の教科書には入っていた。労働条件の改善に向けては、先進国での工場法などの制定、1919年の国際労働機関(ILO)設立などによって規制がかけられていき、現在でも、貿易協定の中に「労働条件や環境を悪化させないこと」が盛り込もうとされているのである。
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