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2015-12-08 00:00
芹沢論文に触発されて
上田 隆史
団体役員
12月2日・3日付の芹沢健氏の投稿「対テロ戦争再考」を拝読したが、我が意を得たり、との思いである。テロを熱病に例え、その対応策を、外科的手法と内科的手法の2種類に分けるという論旨は明快である。
私の理解が間違っていなければ、芹沢氏は、これら外科的手法と内科的手法の「どちらも重要」とお考えだとお見受けする。私も同感である。しかし日本では、えてして「あれかこれか」の二者択一で外交が論じられる傾向にあり、芹沢氏のような「あれもこれも」という思考はあまり受け入れられていない気がする。たとえば「非軍事的手段が正しいが、軍事的手段は間違っている」、「個別的自衛権は構わないが、集団的自衛権はだめだ」といった具合である。例のジョセフ・ナイによる「ハード・パワー」「ソフト・パワー」の概念についても、ともすれば「前者は間違っていて、後者が正しい」とでも言わんばかりの暴論が語られることすらある。ナイにとっては、はなはだ迷惑な話に違いない。現にナイはこれら二つのパワーを組み合わせた「スマート・パワー」という概念を打ち出しているではないか。ナイは「どちらも重要」と考えているのである。
さて、対テロの話に戻ると、これは要するに国際社会の治安維持の話である。国内社会における治安維持とパラレルに考えればわかりやすい。テロという「不法行為」に対しどう対処するべきか、その手法が問われているのである。国内でも凶悪犯罪が発生すると、「犯罪者に厳罰を」という声と「再発を防ぐために社会環境の整備を」という声が出てくるが、いずれも正論である。「どちらも重要」なのである。国際社会でも話は同じである。たしかに国際社会には、国家主権のような治安維持の究極の担い手は厳密には存在しない。かといって全くないわけでもない。現在の国際社会は、いうなれば「治安維持の究極の担い手」がおぼろげながら姿を現しつつある段階にあり、治安維持の根拠は国連憲章を含む国際法であり、その担い手は国連安保理や有志連合であったりするわけである。
ただし、そのような認識が、地球規模でいまだ満場一致のコンセンサスが得られていないので、報復が生じたり、軍事的制裁に批判が湧き起こったりするのである。今後、はたして満場一致のコンセンサスが得られるかも定かではない。とはいえ、ここまで世界が一体化し連結性が高まれば、そのような認識はますます必要とされるはずである。そしてそのような認識の下で、改めて治安維持の方法論が検討されるべきなのである。そうすれば、芹沢氏のいう「外科的手法」と「内科的手法」の意味もさらにはっきりしてくるのではないか。そして、その「どちらも重要」ということが。
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