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2007-02-07 00:00
連載投稿(2)歴史認識の多様性と共有
中兼 和津次
青山学院大学教授
私が思うに、歴史とは多様な解釈を可能にするものである。またしなければならないと思う。中国ではこれまで何度も歴史解釈を変えてきた。ひどいのは、毛沢東時代(もしかすると現在も)歴史記録から事実を抹殺することさえ行ってきた。典型的には、ある政治人物が失脚するとその人は展示した写真から消えてしまうのである。日中が本当の意味で理解し、歴史認識を「共有する」(それが可能かどうかは分からないが)のは、双方が多様な、あるいは柔軟な歴史解釈をまず認めるかどうか、この一点にかかっているような気がしてならない。
1984年に遼寧大学を訪問して、ある高名な先生にお会いしたときのことである。その晩の歓迎の宴席で度の強い酒を飲んでいたせいか、よせばいいのに私はつい「中国の経済学者と日本の経済学者の大きな違いは、われわれはマルクスの唯物史観を仮説だとしか見ていないのに対して、中国の人はそれを歴史法則だと見ている点にある」といってしまった。するとその先生はキッとして「唯物史観は仮説ではありません、歴史によって証明された真理です」といわれたのである。途端に座は白けてしまい、それ以上議論すると、折角のおいしいお酒と料理が台無しになるし、何よりも周りの出席者の不興を買いそうなので議論を慌ててそらしてしまったことがある。ところで、90年代の末に全国政治協商会議副委員長の成思危氏が東大経済学部にやってきたとき、歓迎の昼食会の席上隣に坐った成氏にこの話を紹介したところ、「あなたの言うとおりです。自然科学の理論だって全て仮説ではないですか」といなされてしまった。(おわり)
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