ホーム
新規
投稿
検索
検索
お問合わせ
本文を修正後、投稿パスワードを入力し、「確認画面を表示する」ボタンをクリックして下さい。
2015-11-09 00:00
(連載1)日本は「経済学を輸入した」のか
池尾 愛子
早稲田大学教授
「経済学を輸入した」という表現を時として目にすることがある。しかし、このまま英訳しても通じない。日本語でも正しくは、「西洋経済学を翻訳した」や「西洋経済学を読んだ」と表現すべきであろう。現在大学で教えている研究者の間で、学生時代に習ってきたことが違うようなので、私の経験を紹介しながら少し検討してみたい。
まず、功利主義(utilitarianism)についてである。これは「個人の自由」や「最大多数の最大幸福」が鍵フレーズになる思想である。私の学部学生時代(1970年代後半)、ある教授が教室で次のように解説した。「功利主義は日本において、『家族の概念がない』と批判され続けていて、受容れられませんでした。でも、変ったのは日本ではなく、経済学の方でした。経済活動の主体として、『個人』ではなく、『家計(household)』という概念を使い始めました。これで経済学は功利主義から切り離されました」これが私の習ったことである。
その後、J・S・ミルや小野梓を専門的に研究されていた山下重一氏にあえて「日本では功利主義は受容されたのですか」と尋ねたことがある。山下氏はミルの功利主義や小野の功利主義研究について詳しかったので、確認したかったのである。しかし、そんな質問をした私が悪かった。「功利主義には家族の概念がない」、「(少なくとも)戦前日本では『個人の自由』は利己主義と捉えられていた」などと私自身が回答する破目になった。
明治期の経済学者天野為之の場合、彼は家族や日本国を大切に思っていたので、報徳思想を採用していた。彼は報徳思想と整合するように、一般道徳や実業道徳・公益(日本の輸出業者達の信頼にかかわるので、誰もが輸出品の品質を落とさないなど)の重要性を若者達に説いていた。さらに、「仕合わせ」については、江戸時代に井原西鶴が考察していたことが知られている。(つづく)
投稿パスワード
本人確認のため投稿時のパスワードを入力して下さい。
パスワードをお忘れの方は
こちら
からお問い合わせください
確認画面を表示する
記事一覧へ戻る
グローバル・フォーラム