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2015-09-26 00:00
天野為之と福澤諭吉
池尾 愛子
早稲田大学教授
8月27日に本e-論壇で「発明と国際貿易の重要性」と題して、明治期の経済学者である天野為之(1861-1938)が福澤諭吉(1834―1901)から採り入れたものを中心に紹介した。天野や彼の同世代たちの多くが福澤の著作を読み、自分で勉強し思考していく励みにしたといってよい。既に中国人研究者たちに伝えたのであるが、天野たちは福澤から受け容れられることと、受け容れられないことを峻別していたといえる。ある人の著作を読んだからといってその全てを受容れるわけではないことは当然である。実際、天野の場合、福澤から受け容れなかったことがかなりある。
福澤は1860(万延元)年に咸臨丸に乗り、初めてアメリカ西海岸で50日余り過ごした(桑原三郎『福澤諭吉百話』)。彼は1861(文久元)年12月から約1年、ヨーロッパ諸国を訪問した。1867(慶応3)年のアメリカ再訪では東海岸も訪問し、知的交流もはたして、多くの図書も購入した(戸沢行夫『福沢諭吉著作集』第4巻解説)。そうした見聞と読書の成果として、福澤の『西洋事情』の初編(1866年)、外編(1868年)、二編(1870年、明治3年)が出版され、当時の日本人に西洋をわかりやすく伝える書物として明治期にダントツの大ベストセラーとなった。1875年の『文明論之概略』になると、福澤の論調はすこぶる挑発的になった。当時の日本の知識人に対して要するに、何が何でもとにかく西洋文明を勉強しなさい、というのが彼の主張の中心であったといえる。天野世代になると、「西洋文明」を猛烈に勉強するだけではなくなっていた。
福澤は漢籍の素養を持った上で西洋文献を読破し、「恰も一身にして二生を経るが如く、一人にして両身あるが如し」と言った上で、西洋文明研究を堂々と奨励したのである。福澤のいう「文明」は「人の安楽と品位との進歩」をいい、それを得るのは「人の智徳」とその進歩である。今風にいうと、政府関係者や外交官だけではなく、民間人、一般人の智徳とその進歩が文明を構成する。そして徳は道徳(モラル)と言い換えられ、智にはニュートン力学など物理学、応用科学、世界地理(政治地理)、統計学等が含まれた。天野は、福澤が褒めた仏教だけではなく、酷評した儒学、神道にも立脚した二宮尊徳の教義を採入れ、明治期以降に展開した報徳思想(報徳教)にも注目した。福澤が「徳」に関連して、送った見本と同じ品質の製品を輸出すべき事を説いていたことを参照すれば、「徳」は報徳思想の「至誠」と重なりあう。福澤・天野の両者にとって、近代文明は徳や至誠なくして動かなかった。天野は当時の中国人の道徳的高さ(約束を守ること)に敬意を評し、日中の実業青年の交流を紹介し中国人留学生を受入れ、中国人に西洋文明も学ぶ機会を提供していたので、「脱亜論」は受容れなかったといえる。
最近、「福澤は当時の日本人に西洋を学び、どのように西洋に対処するかを伝えたかった」とする中国人研究者の報告を聞く機会があり、「中国文明評価」や「脱亜論」に振り回されない福澤評価が登場したように感じられた。もっとも、文化大革命期に大学が機能しなかったことは、それに巻き込まれた世代の研究能力に甚大な影響を及ぼしてきたことも事実であろう。大学入学前の若者が2年間農村で勤労する慣行もあったようだ(より長期間農村で勤労奉仕した若者たちもいた)。このような慣行が続くと、外国や外国語に対する関心が減退する傾向があるといえそうだ。1956年前半生れまでは大学入学前に2年間の農村勤労が課せられ、同年後半生れからはそうした慣行が無くなったようだ。
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