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2015-08-09 00:00
日本人は知識の集積が充分か?
牛島 薫
団体職員
「同じことを繰り返して異なる結果を期待するのは『狂気』である」、とはアインシュタインの言である。今夏の日本人にぴったりなアドバイスではないだろうか。終戦記念日まであと1週間、安倍内閣の戦後70年安倍首相談話まで1週間である。端的には、安倍首相が談話から「お詫び(apology)」を抜くことができるか否かが大きな焦点だ。個人的には、「お詫び」に言及しないことは前提として、米豪やASEANを刺激しないバランスのとれた内容になることを期待している。そして、安倍談話が最後の戦後談話になることを切に願っている。これ以上、生硬な私が内容について愚考を書き連ねたところで賢人の二番煎じも同然になるので、別の話をしたい。日本人のものの考え方についてである。この談話をはじめ、安保法制もそうであるが国内外の運動の激しさは他に類を見ないものである。高々談話一つがここまでの重大な国際問題になるのは並み一通りではないが事実そうなのだからしっかり受け止めるために、理論武装が不充分な日本人はしっかり考え直すべきではないだろうか。
まず、基本的な事だが、歴史観を他国と共有することは友好国でもまずできないということを確認しなければならない。少なくとも旧枢軸国の日本と連合国の中国がそれを成し遂げることは第二次世界大戦を上書きするような大戦が起こった後ですら困難を極めるであろう。つまり不可能ということだ。一方で、日本は戦後、アメリカの歴史観を大部分輸入した点で稀有な例であり、それに加えて消極的平和主義という世界に類を見ない価値観が定着している点でガラパゴス的な国民性である。戦後の歴史観の是非については床屋政談と嫌う方も多かろうことが予想されるので省くが、このレガシーが多くの日本人が平和を語る時のプロトコルとなっているのは論を待たない。そしてそれが日本国内だけに働く共同幻想として確立してしまっている。
次に、この日本人の常識を海外から見た時にどれだけいびつかという事である。日本の軍事大国化への懸念や集団的自衛権解禁、歴史的事実に関する謝罪要求などを表明する政府や世論は、東南アジアなど大きな被害を受けた当事国を含め存在せず、むしろ安倍政権の取り組みを肯定的に捉える向きが多いことはメディアの調査で明らかになっている(中国・韓国は除く)。つまり野党議員や左派有識者が国内で主張する安倍政権に対する批判の論理構成は海外では通用しないのである。ここで一つ私の実体験を話したい。学生時代、日本の憲法、特に九条と日本の平和国家の歩みについて海外留学中に他国人学生達に肯定的にスピーチしたことがあるが、賞賛こそせよ各々の母国に適用すべき条文だとするオーディエンスは一人たりともおらず、特に米国人学生からは現実主義から手厳しい指摘が相次ぎ我々日本人チームは有効な反論が出来ずに涙をのんだ。諸先生方には微笑ましく思われるだろう小さな出来事だが、これが私の思想転向に直接影響した。それ以来、他の文化圏からどう見えるか、この国内の論理は世界的に通用するのかという点に敏感になったが、この経験は今回の安保法制や首相談話に対して知の機会を与えてくれたと思う。しかしそういう機会に恵まれた人は必ずしも多くはないだろう。
最後に、基礎的教養が不足した日本人がいかに多いかという事である。今日(8月9日)放送のフジテレビ番組『報道2001』で、左記のアンケートが紹介されたが、愕然とした。①終戦の日は何日か?②2つの原爆の投下日はいつか?③先の大戦における日本の同盟国はどこか?という質問に対して、全問正解できたのはわずか17%という結果であった。100人アンケートゆえに統計的価値はないとはいえ、高校進学率がほぼ100%の日本において国民に歴史観や安全保障を思考するための前提となる知識・教養が欠如する傾向が強いというのは信じ難いことだ。しかし、そう感じる方も多いのではないだろうか。歴史や政経の教養が不足しているにもかかわらず、安保法制に対して「評価する」が32%、「評価しない」が61%(NHK7月調査)であった。つまり、約7%程度しか判断を保留している人がいないということだ。これは、安保法制の是非を判断するために歴史的経緯や社会情勢、憲法学を最低限把握する努力をした人々が93%に及ぶという意味では恐らくない。むしろ、日本国民の少なからぬ人々が、判断材料が不足した自分に疑問も持たずに重要事項について保留することなく立場を表明していると言うことだと推察する。賛成にせよ反対にせよこれは問題だ。もちろん、どれほどの知識が必要かについて基準などはないし、学がなくては口を開いてはならぬということではないが、内心の問題としてその物事についてよく分かっていないのにもかかわらずそれについて何かしら確信を得ているということは非常に危ない状態だ。それはまさしく『狂気』である。冒頭の金言におけるアインシュタインの前提には、思い込みや無知の無知は敵であり常に知識・経験の集積と更新が必要だ、という姿勢がある。どうだろうか。この夏の安保法制や安倍70年談話について、少しでも多くの知識・教養に基づいて考えてほしい。過去の日本と同じことを繰り返すことは健常だと思われるだろうか?それによって、村山談話や小泉談話の後の外交的惨状と異なる結果を期待するのは『狂気』ではないだろうか?
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