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2015-07-17 00:00
(連載4)安保法制:パーセプション・ゲームの功罪
三浦 瑠麗
国際政治学者
野党による対案提出の流れを理解するには、そもそも、今般の安保法制をめぐる政権側の政治的な意図についても理解する必要があります。政権としては、集団的自衛権の行使容認は、最近はあまり使われなくなった戦後レジームからの脱却の大きな柱ということになるでしょう。集団的自衛権について、権利は有するが、行使はできないというのは、極めて戦後日本的な世界観です。政権としては、なんとしてもこの世界観を崩したかったということでしょう。
今般の安全保障法制において集団的自衛権を行使できるのは、いわゆる「新3要件」が満たされるときです。特に、その第1要件は、日本が他国を防衛できるのは、「他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」ときです。我が国の存立が脅かされているわけですから、これは殆ど個別的自衛権の行使として想定される事態と変わりません。今般の安保法制があることで新たに対処できるようになる具体的な事態は想定しにくく、実際には殆ど使えない法律なのです。では、何のためにこんな大騒ぎをしているかというと、繰り返しになってしまいますが、とにかく集団的自衛権を行使できるようにしたという象徴性が大事だからです。そして、その政治的象徴性は、確かに大きな一歩ではあります。
集団的自衛権の行使容認をめぐる論議は、第一次安倍政権時からの懸案であり、数年間練られた上で国会に提出されました。その過程では、もう少し踏み込んだ方向も検討されたようですが、結果的には実を捨てて名がとられました。
そして、どうして名をとったのかが重要なのです。ここから先は、誰も認めないだろうと思うけれど、日本が自国の安全保障を日米同盟に依存している現実を考えたとき、朝鮮半島有事や台湾海峡有事において集団的自衛権を行使しない選択肢があるようには思えません。実際には、朝鮮戦争に日本は従事しているのです。一般国民はともかくメディアや学者や政治家の少なくない人々がそれを知っている。平和国家と言いながら国民向けには皆で隠蔽する。戦後日本の最大の陰謀の一つかもしれないとさえ思います。これまでの政権は、それを理解していながら法整備を怠ってきたわけです。いざというときには超法規的な対応を行うしかないと腹を括っていたのかもしれません。法規と現実の間の乖離が大きくなりすぎることの最大の問題は、法遵守のタガが緩むことです。どんな形であれ、集団的自衛権を認めさせることで、米軍との共同訓練も可能になるし、有事への備えもより現実的に行えるという側面があるのです。(つづく)
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