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2007-01-18 00:00
国際社会全体で取り組むべき水問題
松山 晶
大学生
12月20日付けで当政策掲示板「議論百出」に投稿された高橋一生氏の「水は平和構築の鍵である」という考察にはうなずけるものがある。しかし「安全な水」の利用における不平等が深刻な社会的・政治的摩擦を引き起こしていることも否めない。事態の打破に必要なのは、国際社会全体が水の安全保障に取り組むことだ。
地下水源の枯渇や水の汚染などによって、「安全な水」の公正な分配はいまや世界規模の緊急課題になっている。先月発表された国連開発計画(UNDP)の『人間開発報告書2006』によれば、今も10億人を超える人々が「安全な水」を確保することができずにいる。一年に180万人もの子供たちが下痢等の疾病で死亡している。汚れた水は世界的に見ると子供の死の第二の原因である。またワールド・ウォッチ・ジャパンによると、イランでは東部を中心に、井戸の水が枯れた村を捨てることを余儀なくされる「水難民」が増加している。いまや水の危機は、政治的紛争以上の被害をもたらしているのだ。しかも今、自然環境を悪化させる全世界の活動を全てストップしたとしても、水の環境が回復方向に好転し始めるのは、今すぐではなく、10年、20年後からだという。
世界的な水の欠乏はまた、民族間・国家間の不和の引き金ともなっている。その状況が明確なのはイスラエル・パレスチナ自治区における水問題である。ヨルダン川西岸地区の地下水の83%はイスラエルの住民と入植者が使っており、パレスチナ人はその残りの水量しか使えない。また2000年9月のインティファーダ勃発後の2年間のうちに、イスラエルがガザ地区だけで100以上の井戸を破壊したとの報告もある。金や石油と違い、水は他の何ものによっても代替がきかない。水は一国単位ではなく、周辺地域、世界規模の問題として扱わなければならないと考える。
私が「私の水」という考え方に違和感を覚えたのは、1995年の阪神大震災の時だ。母が浴槽にためていた水を近所の女性がもらいにやって来たのだが、洗面器を水で満たして、「はい、これがうちの水です」というように水を渡すことが、私にとってはとても奇妙な事に思われたのだ。何故なら水道の配管が壊れてさえいなければ、その水は「彼女の水」であったのかもしれないからだ。それは国家レベルでも同じことだと思う。日本は水1000トンの代わりに穀物1トンを輸入し、遠い輸出国の水を多量に消費している。その現状からしても、水問題は国別に考えるのではなく、国際社会全体で取り組むことが必要だと思う。
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