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2014-12-04 00:00
(連載3)ドラキュラZEROからアメリカの深淵をのぞく
六辻 彰二
横浜市立大学講師
さすがに現代では、かつてのように露骨に「他者」だけを「悪」と描くことは減りました。今回のドラキュラZEROでも、一応ドラキュラを「悪」と位置付けています。しかし、それ以上の「悪」としてオスマン帝国を描くのであれば、トーンの違いはあっても、従前のスタイルと基本パターンに違いはありません。
様々な批判を浴びながらも、アメリカやハリウッドには、自らの過ちを後に認めるだけの懐の深さがありました。泥沼のヴェトナム戦争を「アメリカの正義」からかけ離れた視点で描いたオリバー・ストーン監督の「プラトーン」(1986)は、その象徴です。また、南部の人種差別を、リアリティをもって描いたアラン・パーカー監督の「ミシシッピー・バーニング」(1988)をはじめ、同様の例は多数あります。このように自己批判をできるだけの力があったことは、他国からみて逆に信頼感を高めることとなり、ひいてはアメリカが世界の超大国の地位にとどまるうえで重要な役割を果たしたといえるでしょう。ところが2000年代以降のハリウッド映画は、たしかにCGなどの技術は格段に進化したのでしょうが、「内省」という意味では(それがそもそもあの商業主義のハリウッドにあったのかというシニカルな意見もあるでしょうが)寒い状況があるように思えてなりません。
もちろん、対テロ戦争は現在進行形で続いており、ヴェトナム戦争終結の11年後に公開された「プラトーン」がアカデミー作品賞を受賞したときとは、アメリカ人の「余裕」も違うでしょう。また、基本的に国家間の戦争であったヴェトナム戦争と異なり、対テロ戦争の場合は終結宣言で終わるものではありません。そのために、余計にイラク戦争だけピックアップして振り返ることが困難なことも確かです。
しかし、その状況が続く中、アメリカ内部の世論や、アメリカ人の深層意識といった、いわば「アメリカの消費者」を意識して作品を作り続けることは、アメリカ国内の潜在的な需要を掘り起こすことには繋がるでしょうが、翻って「悪」と位置付けられた「他者」からの反感を招き、それ以外の者にもアメリカの「余裕のなさ」を印象付けることになりかねません。「誰をもって英雄とみなすか」は立場によって異なるものであり、ドラキュラZEROの「悪にして英雄」というフレーズは明らかに、ドラキュラあるいはそれが守ろうとしたキリスト教圏の立場に立つものといえます。これに鑑みれば、ドラキュラZEROには対テロ戦争を背景とした「宣伝映画」としての違和感がぬぐい難いといえるでしょう。(おわり)
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