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2014-12-02 00:00
(連載1)ドラキュラZEROからアメリカの深淵をのぞく
六辻 彰二
横浜市立大学講師
10月31日、「ドラキュラZERO」が公開されました。この映画の公式ホームページによると、「…膨大な数の世の中にあふれるドラキュラ物語のモデルとなった実在の男は、歴史に名を刻む〈英雄〉だった。15世紀半ばにトランシルバニア地方を収め、人々から敬愛された君主、ヴラド・ドラキュラ」。19世紀にアイルランドの小説家ブラム・ストーカーが世に送り出した「ドラキュラ」は、世界で最も有名なモンスターと言っていいでしょう。そして、そのモデルが15世紀のトランシルバニア、現在のルーマニア一帯を治めていたヴラド公だったことも、広く知られています。イスラームのオスマン帝国がヨーロッパ侵攻を図って東欧一帯を席巻した際、ヴラド公はこれと対決しました。しかし、殺害した敵兵を串刺しにして野ざらしにするなど、そのやり方があまりに残虐だという逸話が、後にストーカーが世界で最も有名なヴァンパイアを創作する際、インスピレーションを与えたといわれます。
フランシス・コッポラが監督を務めた「ドラキュラ」(1992)も「人間らしいドラキュラ」を描いたものでしたが、今回の作品はそのさらに前の段階がメインテーマになります。つまり、今回の映画は「人間だったヴラド公が、なぜ恐るべきヴァンパイアになったか」に焦点があるようです。かなり大雑把にいえば、「オスマン帝国という巨大な外敵が現れたことで、それに対抗するために、闇に身を委ねてでも、家族や領地を守ろうとした」というストーリー構成だといえます。ただ、どうしても気になるのは、なぜ今、この部分をフォーカスした映画が作成されたのか、なぜ「その男、悪にして英雄」がキャッチコピーになっているかということです。もちろん、プロデューサーや監督から話を聞いたわけではありません。また、よく知られているストーリーを別の解釈で描き直す、というのもよくある手法です。ですから、何もそんなことを詮索する必要もないかもしれません。
しかし、商業コンテンツ、ことに巨額の予算をかける映画は、製作者サイドの「これを作りたい」という欲求とともに、採算性という観点から、観客あるいは消費者のニーズに応える必要性に迫られます。その意味で、このハリウッド映画の製作者たちは、この映画がいまのアメリカの観客に受け入れられるだろうという目算を、多かれ少なかれ持っていることになります。それでは、「人間・ドラキュラ」を描くことで、マッチすると期待されている多くのアメリカ人の感慨とは、何でしょうか。
先ほども述べたように本作は、「オスマン帝国」という外敵が現れたことで、ヴラド公は「致し方なく」ヴァンパイアとなったというモチーフです。日本的な言い方でいえば、「盗人にも三分の理」といったところでしょうか。いずれにせよ、本作における「ゆるされざる本当の敵」はドラキュラではなく、歴史にその名を残す最後のイスラーム帝国、オスマン帝国です。ここに現在のアメリカ人の屈折をみることは、さほど邪推ともいえないと思います。対テロ戦争、なかでもイラク戦争(2003)は、アメリカに対する信頼を失墜させました。「フセイン政権から国際テロ組織に大量破壊兵器が渡っては危険だ」という、根拠が薄弱な報告に基づき、国際法にも反する形で一方的に軍事行動をとった結果は、大量破壊兵器は発見されず、国際テロ組織の活動をかえって拡散させてしまいました。テロの脅威にさらされていたアメリカ人の心理状態を斟酌するとしても、少なくとも「戦争の結果、フセインという独裁者が排除され、イラクが民主化された」というブッシュ大統領(当時)の主張は、あまりにご都合主義といわざるを得ないでしょう。(つづく)
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