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2014-06-23 00:00
再考・パブリック・ディプロマシー
千野 境子
ジャーナリスト
内外メディアの報道によれば、米国大学教授会(AAUP)が中国の「孔子学院」を誘致した米国の大学に対して、設置の是非をあらためて検討するよう求めている。講師の選定や授業内容に中国政府の意向が反映し、「学問の自由」が侵害されているというのが理由だ。同様の動きはカナダでも起きているという。そんなこと最初から分かっていたことではないかと言っても始まらない。孔子学院は2004年にソウルで1校目が開かれるや、猛スピードで世界を席巻、今では4千か所以上にも上るからである。従って米国の動きは歓迎だし、これを機に是非ともブームに歯止めをかけて貰いたい。もし中国の講座を開くなら「学の独立」を貫いた上で行ってほしいものだ。
孔子学院は原則として教師と教科書を中国が用意、大学は場所を提供する。さながらファーストフードかコーヒー店のチェーン方式のようで、上手いやり方だ。講座を開きたくても資金難の大学には有難いし、中国は労せずして他国のアカデミズムに入り込める。欧米からアジア・アフリカ、南太平洋まで孔子学院を世界に一気に広げた手腕に、これぞ中国の「イメージ戦略」とか「ソフトパワー」、あるいは「パブリック・ディプロマシーの勝利」と称賛する向きまであった。それに比べて日本のパブリック・ディプロマシーへの取り組みの遅れを批判するのも、一種の流行のようだった。
しかし本当にそうだろうか。イメージで相手を取り込んでも、中味が伴わなければ結局は離れて行くものではないのか。パブリック・ディプロマシーの言葉が生まれたのは米国で1960年代と古い。しかしその米国でも関心が高まったのは2001年の同時多発テロ以降だ。世界の反米勢力に如何に対抗するか、米国のトモダチを作るかが喫緊の課題となった。英国でもブレア政権下でブランド力を高めるため「パネル2000タスクホース」が設置された。そして中国は民主化運動を弾圧した天安門事件で国際社会からの孤立を余儀なくされ、失地回復が急務だったことが背景にあると言われる。
つまりパブリック・ディプロマシー登場の動機には、程度の差はあれ自国の負の要因が関係しているということである。だから日本はパブリック・ディプロマシーなど必要ないとは言わない。見せかけや羊頭狗肉は馬脚を露わすことになる。孔子学院は、真っ当な中味あってこそのパブリック・ディプロマシーという当然の理への悪しき見本なのである。
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