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2014-06-20 00:00
(連載1)ワールドカップから見えてきたコートジボアールの光と影
緒方 林太郎
前衆議院議員
サッカー・ワールド・カップで、途端にコートジボアールという国に注目が集まりました。一昔前は、日本でも「象牙海岸」と呼んでいたのですが、数年前から「(フランス語の)Cote d\'Ivoireが正式名称であり、翻訳しないように、英訳のIvory Coastもダメだ。」とコートジボアールが言い始めてから、日本もそのまま邦訳することなく「コートジボアール」と呼ぶようになりました。
1999年にクーデターがある前は、フランス語圏西アフリカでは最も発展している国でした。石油、カカオ等、豊かな自然と資源で成長している国でした。経済首都のアビジャンは大都会です。セネガルとコートジボアールが、何となくフランス語圏西アフリカの中では「ちょっと先に出た存在」でしたが、経済的に発展しているのはコートジボアール。私が住んでいたセネガルはフランス語圏本家本流を自任していましたが、そのセネガルが、かすかに、しかし確かなライバル意識を抱くほどの発展ぶりでした。
コートジボアールという国は南北対立の存在する国です。南部はキリスト教、北部はイスラム教ということで、あの地域全体に存在する対立の構図と同じです(ナイジェリアで今、世界的な問題となっているボコ・ハラムなども同様の構図です。)。建国の父、フェリックス・ウフェ・ボワニ初代大統領は巧みにその辺りを収めていました。例えば、独立以来の首都はアビジャンでしたが、今は中部都市のヤムスクロに移っています。ヤムスクロ遷都については、ウフェ・ボワニ大統領の生まれ故郷であるということに加え、南部のアビジャンに偏った政治・経済構造を少しでも北部に寄せたいという思いもあったのでしょう。
ところが、1993年にウフェ・ボワニ大統領が逝去してから安定に影が差し始めます。ここ15年間はずっとごたごたし続けました(ようやくここ2~3年は落ち着いていますが。)。原因は第二代大統領のアンリ・コナン・ベディエが狭量な南北対立を煽ったためです。ウフェ・ボワニ逝去後、憲法上の規定により国会議長から大統領になったベディエ、そして、ウフェ・ボワニの晩年首相を務めたアラサン・ウワタラが激しく対立しました。ベディエは、それまでコートジボアールになかった「Ivoirite(イヴォワリテ)」という概念を導入します。直訳すると「象牙性」ですが、何のことはない「コートジボアールの大統領選挙に出る者は、両親共にコートジボアール出身でなくてはならない。そして、選挙前5年はコートジボアールに住んでなくてはならない。」という条件を選挙法に入れ込んだのです。(つづく)
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