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2013-10-28 00:00
(連載)政教分離の「教」(2)
緒方 林太郎
前衆議院議員
では、政教分離の「教」というのは、特定の「宗派」を指すと位置付けてしまえばいいのか、というところで、実はまだ私の思考は最後の一歩を踏み出せずにいます。それで良いと思うのですけども、もしかしたら思いが至っていない部分があるかもしれませんので結論を出しかねています。
なお、私は政教分離そのものについては、それを厳格に適用すべきと考えています。これまでにも明らかにしてきましたが、私は信教の自由として「信じない自由」、「宗教からの自由」を大事にしたいと思っています。一旦、宗教から自由になった独立した個人があり、その個人が「信じる自由」、「宗教への自由」を享受すべきである、と考える時、ベースの政教分離は厳格でなくてはならないと思います。
かといって、政治関係者が伊勢神宮に行くのがダメだというつもりもありません。それを厳格にやり始めてしまうと、バチカンの国家元首であるローマ教皇、正式名称が「二大聖モスクの守護者」となるサウジ・アラビア国王との関係で変なことになってしまいそうです。ラマダンが終わった時、イスラム教国大使を総理官邸に呼んで食事会をやることがどうなのかということもあるでしょう。
政教分離の「教」とは、(上記のような悩みはありますが)特定の宗派を指すものであり、かつ社交的・儀礼的なものはOKとするとした上で、そこまでスコープを絞りこんだ後は政教分離を極めて厳格に適用する、これでいいのかなと思っています。合目的的に考えれば、政教分離の「教」のスコープをこういうかたちで絞り込んだとしても、「信じない自由」、「宗教からの自由」による独立した個人の存立に影響しないでしょうから、特に政教分離の価値を損なうとも思えません。(おわり)
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