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2006-10-16 00:00
現実を見据えた熟慮ある言論の必要性
村上正泰
日本国際フォーラム主任研究員
櫻田淳氏の論稿「『他国の友人』を罵るのが愛国者か」は我が国の言論状況に対する非常に優れた警告であり、おおよそ何も付け加えるべきことはないように思われる。にもかかわらずこれに関連した投稿をしようと思ったのは、たまたま次のような新聞記事を目にしたからである。それは9月5日に北海道新聞朝刊に掲載された「安倍政治の行方」という特集記事である。記事によれば、8月29日に都内で開催されたシンポジウムにおいて、ある女性代議士が、地元新聞で加藤紘一議員と対談したことを紹介した上で、「『対談記事が掲載された15日に、先生の家が丸焼けになった』と軽い口調で話し」、「約350人の会場は爆笑に包まれた」というのである。
いささか主観的な記述の目立つ記事であるし、果たしてこれが事実なのかどうか分からない。もし事実に反するのであれば、シンポジウムの主催者や出席者は強く抗議すべきである。しかしながら、おそらく加藤議員の自宅放火事件を嘲笑の対象とするかのごとき空気を感じさせるものがあったということであろうし、少なくともこれが事実であってもおかしくないと思わせる状況が我が国の言論の一部にある。
私自身は、靖国神社問題について加藤紘一議員の見解とは相容れないし、北海道新聞のように「国家主義台頭に危うさ」などと言うつもりもない。「平和主義者の“明快さ”は、かれらが局外者の立場に身をおいているからである」と喝破したのはスタンレー・ホフマンであるが、昨今の我が国においては、平和主義者の対極にいるはずの人々にもこの警句が当てはまる。そのことが非常に気になるのである。
言論に論争はつきものであり、論争においては時として激しい批判の応酬も繰り広げられるであろう。しかし、それらは現実をしっかりと見据えたものでなければならず、いくら大衆受けしようとも、感情的な発言で悦に入っているだけの言論は有害無益である。現実の外交においては、国益と国際協調の間の最適解を求めていかなければならない。この難しさを直視せず、単に反中感情を声高に叫び、挙句の果てに自らの主張に反する者を貶めるというだけで、外交などできるものではない。このところ、一見したところ威勢はいいが、品位のない言葉遣いが目につくことは憂慮すべき事態である。とりわけ政治家は言葉の値打ちが問われる存在であり、公の場ではもっと熟慮をもって語るべきではないだろうか。
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