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2013-07-01 00:00
原子力発電の持つ意味
石崎 俊雄
龍谷大学教授
震災、原発事故から2年以上経つものの、未だに放射能汚染により地元に帰れず大変な苦労をされている方々が大勢いらっしゃることは周知のことである。それらの方々に国からの十分な補償と国民からの暖かい配慮が必要なことは言うまでもないことであるが、これからの日本のエネルギー政策をどうするかという議論は、これはこれとして真剣に始めるべきである。まず、議論の前提として、現在の原子力発電には放射能汚染のリスクと廃棄物の処理問題が依然として残っていることには留意しなければならない。しかしながら、原子力発電が必要なものなのか、不必要なものなのかの議論が十分になされていないことを私は非常に残念に思っている。
まず、グローバルな視点で世界を見れば、今や人口が70億人を超え、直ぐにでも100億人に到達しようとしている現状で、これだけの人口を支える生産力をどのように維持していくのか、それを原子力発電抜きで考えることはかなり無謀な発想と言わざるを得ない。生産力が人口を維持する水準を下回れば戦争が必然的に発生し、人口の自動的な調整が行われることを誰も阻止することは出来ない。次に、日本の問題として考えた時に、日本は豊かになったので上述のような問題は関係のないことだと言えるであろうか?歴史的に見れば、人類は少なくとも数百年以上前から人類共通の課題を地球規模で共有し、国家という単位だけではなく世界という単位でほぼ同質の生活を維持してきているのではないかと思う。
1543年の種子島への鉄砲伝来は信長による日本再統一を促し、1853年の黒船来航は鎖国を解き幕末から明治維新へ日本の歴史を大きく動かした。このように、世界の動きは日本の社会を間違いなく大きく変えるのである。したがって、原発の必要性を日本の中だけで考えることは無意味なことだと思える。ここで、原子力発電所を鉄砲に擬えて話をすることは不謹慎なことであるかも知れないが、最近の原子力発電に対する賛否の意見を聞いていると、幕末における徳川政権と薩長勢力の考えの違いにどうしても思いが到ってしまうのである。平和の維持を最優先とし、殺人兵器であり、しかも武士道にもとる新兵器の導入に消極的であった徳川政権と、新しい技術を積極的に取り入れて世界に対抗できる国家を樹立するために従来の価値観を捨ててまで新兵器の導入を促進した薩長勢力のどちらが理にかなっていたのであろうか?
恐らく倫理的には旧守勢力の側が正しかったと言えるかもしれない。すなわち、世の中を混乱に陥れる危険を犯してまで、積極的に新技術の導入を推進する意味が希薄だったからである。しかし、歴史の評価は全く逆である。なぜなら、改革派のほうが、近代化により日本の発展と世界の繁栄を導いた事実があるからである。人殺しの道具である鉄砲ですら、このような結果が歴史の事実である。ましてや、原子力発電は、欠点はあるものの、莫大なエネルギーの利用による恩恵を人類に遍くもたらすものである。このような、人類への天からの恵みである原子力発電を軽視することは一体何を意味するのか、真剣に考えるべきだと私は考える。
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