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2013-03-10 00:00
(連載)アルジェリア人質事件の首謀者殺害をめぐって(2)
六辻 彰二
横浜市立大学講師
2008年、最大野党・共和国連邦運動(FAR)のリーダー、ンガレジ・ヨロンガが「武装勢力との結びつき」の嫌疑で当局に拘束され、隣国カメルーンに連れ出され、拷問を受けていたことが発覚しました。西側先進国は冷戦終結後、多くの開発途上国に対して、民主化や人権保護を求めてきています。ところが、ヨロンガの一件に対して旧宗主国フランスは、ヨロンガの恩赦をチャド政府に求めたほかは、強くこれを非難することはありませんでした。フランスだけでなく、日本を含む西側先進国もほぼ同様です。
その理由は大きく分けて二つあります。第一に、チャドが日産17万バレルの産油国で、原油や天然ガスのほとんどを、フランスやドイツなどのヨーロッパ諸国に輸出していることです。そして第二に、この地域における力学上、チャドが西側先進国の「手駒」として必要だったことがあげられます。デビー率いるチャド政府は、米国政府から「テロ支援国家」と目されているスーダンと敵対してきました。スーダンのアル・バシール大統領は、2003年から同国西部のダルフール地方で発生した内戦「ダルフール紛争」で、政府系民兵組織「ジャンジャウィード」がアフリカ系住民を虐殺し、その土地を乗っ取ることを容認、あるいは指示したとして、国際刑事裁判所(ICC)から逮捕状が発行されています。ジャンジャウィードは、かつてリビアのカダフィからの支援を受けていたメンバーを中核としています。
ダルフール紛争勃発後、10万人以上の難民が国境を越えてチャドに流入しました。これを追ってジャンジャウィードがチャド領内に侵入し、チャド軍と交戦したことをきっかけに、両国の関係は急速に悪化しました。2006年4月、チャドの反政府武装勢力が首都ンジャメナ近郊にまで迫り、これをからくも撃退した後、デビーはスーダン政府がこれを支援していたと主張して、国交断交を宣言。両国の緊張はピークに達しました。デビー本人もムスリムで、近隣諸国との対立を宗教対立とみることはできません。チャドとスーダンの対立は、「国境侵犯」というどこの世界でもあり得る問題が引き金でした。そして、この状態を処理(「解決」ではない)したのは、他ならぬカダフィでした。カダフィの仲介により、チャド、スーダン両政府は2006年8月に国交を回復させました。アル・バシールの「親分」の顔を立てることで、デビーはスーダンとだけでなくリビアとの正面衝突に至る事態を回避したといえるでしょう。カダフィは1987年にチャドへ軍事侵攻し、リビア軍を撃退したのは、当時軍の最高司令官だったデビーでした。この関係からも、デビーにとって最大の敵は、アル・バシールよりむしろ、その後ろにいるカダフィだったといえるでしょう。
ともあれ、チャドのイドリス・デビーは、カダフィやアル・バシールといった「危険人物」と潜在的に敵対する関係にあったわけで、これは逆に西側先進国との友好関係を維持することに繋がりました。チャド国内には1000名以上のフランス軍が常駐しており、チャド反政府勢力の鎮圧作戦にも協力しています。一方で西側先進国からみた場合、デビーあるいはチャド政府は、自らに敵対的なイスラーム系勢力の影響力がアフリカ北部で大きくなることを抑制するための「手駒」だったのです。(つづく)
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