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2013-02-23 00:00
(連載)アフガニスタン撤退をめぐる英国流後始末(2)
六辻 彰二
横浜市立大学講師
これらの行為のうち、同時多発テロ事件の首謀者であったビン・ラディンを匿っていたことが、アフガニスタンに対する米国の報復攻撃をもたらしたわけですが、その行動をともにしたのが英国でした。米英軍の攻撃によって政権の座を追われたタリバンは野に下りましたが、パキスタン国境付近を中心に分散し、外国の軍隊や、その支援を受ける新生アフガニスタン政府に対するテロ攻撃を通じて抵抗を続けました。これに対応するため、2001年12月の安保理決議とアフガニスタン暫定政府との協定に基づき、国際治安支援部隊(ISAF)が派遣され、国内の治安維持、新生アフガニスタンの軍や警察の訓練、テロリストの掃討作戦などを担ってきましたが、英軍はISAFに9500人を派遣しており、その規模は50カ国におよぶ派遣国のうち米軍の6万8000人に次ぐものです。また、英国王室のヘンリー王子も、20週間にわたってアフガニスタンでの任務に就きました。英国政府が米国とともにアフガニスタンに深く関わった大きな背景としては、「米国とヨーロッパに二股をかけて、両者の間を繋ぐことで存在感を保つ」外交方針がありました。しかし、それだけでなく、2003年のイラク攻撃が「大量破壊兵器を保有している」というほとんど「言いがかり」で行われたことと比較すれば、アフガン攻撃の場合は少なくとも当初は「9.11に対する報復」を大義としていたため、国際的にも大きな非難を浴びることはありませんでした。このこともあり、少なくとも当初は米国と同様に英国内部でアフガニスタンでの軍事行動に批判的な意見はほとんどありませんでした。
ところが、やがて自国兵員の犠牲者が増え、財政負担が重くのしかかるなか、米国と同じく英国でも出口の見えない対テロ戦争への厭戦ムードが広がりをみせるようになります。2010年1月、イラク攻撃当時英国首相だったトニー・ブレア氏は独立調査委員会の公聴会で証人喚問され、「大量破壊兵器が発見できる」という報告に情報操作があったのではという質問に「訂正されるべきだった」と応じたうえで、「多くの国が大量破壊兵器の存在を信じていたうえ、それがテロリストに渡る可能性は見過ごせなかった」と主張しました。先述のように、イラクとアフガニスタンではやや事情が異なります。しかし、そもそも首相経験者が証人喚問されること自体が英国では異例で、それだけ米国に協力的な外交姿勢への不満が市民に浸透していることがうかがえます。その一方で、ISAFは2014年末までに任務を完了し、アフガニスタンから撤退することになっています。それが視野に入り始めた現在、財政赤字に苦しむ米国オバマ政権は、アフガニスタンからの撤退も加速させています。冒頭で述べた三者会合の直後の2月12日、オバマ大統領は議会での一般教書演説で、アフガン駐留軍の約半数3万4000人の撤退を発表。最大の同盟国、米国が撤退を急ぐ状況が、英国政府をしてアフガニスタンから手を引くことを促しているといえるでしょう。キャメロン首相、アフガニスタンのカルザイ大統領、そしてパキスタンのザルダリ大統領の会見は、内外の事情から英国がアフガニスタンへの関与を弱めざるを得ない状況のなかで行われたのです。
ところで、この状況下で英国政府がただアフガニスタンから撤退するだけでなく、アフガニスタン政府、パキスタン政府、さらにタリバンに会合を呼びかけ、和平合意の実現を模索することには、どんな意味があるのでしょうか。これには、大きく2つの解釈ができると思います。第一に、荒廃したアフガニスタンの和平合意をプロモートすることで、ISAF撤退後のこの地域における安定のお膳立てし、ひいては英国の外交的立場を保つという見方です。ISAFの任務完了が規定路線化されているとはいえ、新生アフガニスタンの軍や警察は錬度や装備がいまだ充分でなく、現在もタリバンによるテロ活動が横行しています。さらに、政権崩壊後のタリバンは「故郷」パキスタンとの国境付近での活動を中心にしていますが、パキスタン国内でも「反イスラーム的」とみなされた個人が襲撃されるなど、そのテロ活動に広がりがみられます。昨年10月には、女子教育の重要性を訴えていた14歳の少女がタリバンに銃撃されています。このような状況下で後始末をつけずに撤退することは、国内世論はともかく、さすがに国際的な立場にかかわります。一方で、支配した地域の問題を交渉に持ち込んで処理し、そのうえで引き上げるのは、英国の十八番でもありました。先述のように、20世紀の初頭、英国は保護国アフガニスタンからの攻撃を受け、その独立を容認せざるを得なくなりました。しかし近代以降、植民地帝国・英国が本格的な武力衝突の結果として独立を認めたケースは米国やアフガニスタンなど少数派で、ほとんどの場合は、カナダ、オーストラリア、エジプト、インド、(イスラーム革命以前の)イラン、南アフリカをはじめとする多くのアフリカ諸国のように、支配し続けることが困難になったとき、散発的な武力衝突はあったとしても交渉を重ね、影響力を残す形で独立を認めてきました。だからこそ、旧植民地の多くが、いまだに英連邦(Commonwealth)にとどまり、緩やかな結びつきを保っているのです。すなわち、ベトナムに象徴されるように、「勝つことに熱心だから勝ち方は非常に上手だが、逆に負け方が非常に下手」と揶揄される米国と異なり、英国は負ける際にも最低限の利得と立場を保持する、しぶとい外交を行ってきたのです。
この観点からすれば、今回の三者会合は、テロ活動が続くなかでのアフガニスタン撤退という事実上の負け戦となりながらも、当事者同士の交渉の場をセッティングすることで、撤退後もこの地域に独自の立場を保つための工作であったと捉えられます。いわば、「昔とったきねづか」といったところです。一刻も早くアフガニスタンから撤退したいという姿勢をにじませる米国・オバマ政権も、ドーハでタリバンとの秘密協議を進めてきましたが、米国・タリバンの二者交渉は、「蚊帳の外に置かれる」という懸念から、カルザイ大統領が反対し、目立った進捗がありませんでした。これと比較すると、アフガニスタン政府だけでなく、関係の深いパキスタン政府をも巻き込んでタリバンとの交渉を進めることは、仮に合意が形成されれば、より実効性の高いものになると期待されると同時に、英国政府にとって内外の批判的な声を抑え、その国際的な立場を保つことができるとみられるのです。しかし、実際にはタリバンが出席していないため、今のところ協議は空振りです。ここから第二の見方、つまり第一の見方の裏返しになりますが、一種の「アリバイ工作」という解釈が出てきます。言い換えれば、タリバンが出席せず、協議が実質的に進まないことを織り込み済みで、しかし「アフガン和平のために英国はこれだけ尽力した」というアピールを内外にした、という見方です。(つづく)
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