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2006-08-17 00:00
「ASEAN諸国の米国離れ」と東アジア共同体を考える
小笠原高雪
山梨学院大学教授
「日米アジア対話」や「日ASEAN対話」に関するさまざまな投稿を拝見し、印象に残ったことの一つは、多くの方が日米同盟の重要性に注意を喚起していたことである。「東アジア共同体の構築に際しても、日本は日米同盟を基盤としてゆくべきであるし、その点についてASEAN諸国と対話してゆくべきである」といった指摘がそれである。こうした指摘の背後には、「ASEAN諸国の米国離れ」に対する懸念があるのであろうが、その指摘は必ずしも正鵠を得ていない。ASEAN諸国は地域安全保障には戦略的なバランスが重要であり、それには米国の存在が不可欠なことを承知している。ASEAN諸国が中国との協調的関係の維持に腐心していることは事実であるが、それだけで安全が確保されると考えるほど、彼らは楽天的ではない。細かい不満や不安は存在しても、米国が東アジアから「手を引く」ことを彼らが望んでいるわけではない。
しかし、それにもかかわらず、米国とのあいだに一定の距離を保とうとする傾向がASEAN諸国のなかに存在するとしたら、それはべつの要因によるものであろう。そうした要因としておそらく最も重要なのは、いわゆるグローバルな諸価値と国家主権との関係をめぐる考え方の相違であるといってよい。この問題に関しては、米国の主張や手法に対して違和感を抱くASEAN諸国は少なくないし、そのことはまた中国に対する一定の親近感にもつながっている。そもそも東アジア共同体構想は、戦略的なバランスの確保を目的とするものではなく、政治経済的な不安要因の管理を主眼としている。1997年の通貨金融危機はわれわれの記憶に新しいところであるし、類似の不安は東アジアの中心部にも潜在している。さらにいえば、経済上の危機が政治上の危機と連動しないという保証も存在しない。いずれにしても、この種の危機においては米国の支援を期待しがたいことが認識されたからこそ、東アジア共同体構想が浮上したというのが本筋であろう。
こうして東アジア共同体構想の主体が域内諸国となるのは「自然」であるが、だからといって「東アジア共同体構想にとって米国の祝福や支持は必要ない」などというのは明らかに言い過ぎである。米国に適切な関心を持たせることが究極の目標ならば、東アジア共同体をAEPCの一部として位置づける可能性を論じるほうが有益であろう。東アジア共同体がグローバルな諸価値と無縁でありえないことも当然であり、その認識はASEAN内部においても少しずつ広がっている。また、それ以前の問題として、東アジアに内在している不安要因の管理がどこまで可能であるかについても、個々の事情に応じた現実的な考慮が必要であろう。東アジアの相互依存が深化していることは確かであるが、相互依存の深化は地球規模の現象でもある。われわれはまた、「内陸部への深入りは不幸を招く」という歴史的な経験則を瞬時も忘れるべきではない。大切なことは能力の限界をしっかりとわきまえながら、具体的な成果を積み上げることである。
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