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2012-05-10 00:00
(連載)自民党による亡国政治の歴史(1)
酒井 信彦
日本ナショナリズム研究所長・元東京大学教授
石原慎太郎東京都知事が、4月16日(日本時間17日)アメリカのワシントンで、東京都による尖閣諸島の購入を言明してから、また尖閣問題が大いに注目されている。尖閣諸島を巡る日本と中国との紛争の経緯は、4月28日に産経新聞に掲載された、同紙の論説委員・石川瑞穂氏による「領土保全を怠ってきた政府」と題する記事に、要領よくまとめられていて、尖閣問題を理解するためには非常に参考になる。
尖閣諸島は沖縄県に属し、今から40年前、昭和47年(1972年)の沖縄返還で、我が国の領土に復帰した。なおこの年は日本と中国の国交が成立した年でもある。その少し前、1968年に、周辺で石油の埋蔵の可能性が発見され、中国と台湾がにわかに領有権を主張し始めた。石川氏による経緯の説明では、この発端部分は省略して、昭和53年(1978年)からの部分について、以下のように述べられている。
「日中平和友好条約の調印を4カ月後に控えた昭和53年4月、尖閣諸島沖に100隻を超える中国の漁船が現れた。多くの漁船が機銃で武装し、日本の海上保安庁の巡視船の退去命令を無視して、領海侵犯を繰り返した。当時の福田赳夫内閣が中国に抗議し、中国漁船は引き揚げたが、中国側は『事件は偶発的』と言い逃れた。国内では、自民党の一部から『調印を急ぐべきでない』との慎重論も出されたが、福田内閣は予定通り、その年の8月、日中平和友好条約に調印した。尖閣諸島については、調印前、園田外相と当時の中国の最高実力者、鄧小平副首相が会談し、鄧氏は『再び先般のような事件を起こすことはない』と約束した。日本はこれを信頼し、日本の領有権は条約で明確にされなかった。2カ月後の10月に来日した鄧氏は尖閣諸島の領有権問題について『10年棚上げしても構わない。次の世代の人間は、皆が受け入れられる方法を見つけられるだろう』と述べた。福田内閣はこの『棚上げ』発言にも異を唱えなかった。当時は中国の軍事力も経済力も今ほどではなかった。日本の領有権を中国に認めさせる機会を逸したといえる」。
つまり尖閣問題は、日中平和友好条約の調印と、密接に関連しているのである。この条約は、日本の外交史の中でも、最も愚かな条約と言うべきもので、当時の総理大臣・福田赳夫は本来慎重派だったが、強引に推進した外務大臣・園田直に押し切られた形となった。すなわち中国側は、漁船の襲来で脅しをかけておいてから、今後このようなことは起きないと口約束をして調印に持ち込んだわけであり、中国人の騙しのテクニックが、ものの見事に発揮されたのである。自民党による外交の、不様な敗北であった。(つづく)
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