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2012-04-01 00:00
(連載)「Kony 2012」への拒絶を考える(5)
六辻 彰二
横浜市立大学講師
「Kony 2012」に対しては、日本で「ウガンダの石油を狙って介入したいアメリカの国策映画だ」と非難する向きもあります。しかし、この非難は的を大きく外しているように思います。そんなことをしなくとも、今のウガンダ政府はもともと欧米諸国と極めて良好な関係にあります。この場合、ウガンダの石油が欲しいだけであれば、わざわざ国際世論に訴えかけたりせずに、静かにアプローチする方が現実的です。その意味で、私自身は製作者たちの善意を疑うものではありません。しかし、善意であるから全てが許されるわけでないことは、これまた言うまでもありません。19世紀にアフリカを植民地化したヨーロッパ人たちも、「遅れた野蛮な土地に文明の光を届ける」という目的を掲げ、少なからず善意に満ちていたのです。先ほどのハンナ・アレントの言葉を借りれば、「哀れみは不運が存在しないところでは存在することができない。さらに、哀れみは一つの感傷であるために、人は哀れみのために哀れみを感じることができる」。
「Kony 2012」の製作者たちは、動画だけでなくソーシャルネットワークが人に働きかける有意性を強調していました。他人の不運に心を痛める感傷そのものは、自然なものだと思います。そして、映像のもつ力は非常に大きいと思います。しかし、その感傷を剥き出しで垂れ流すことは、感傷の無限増幅をもたらします。感傷そのものは、それぞれの個人に対して向けられるものでなく、不特定多数の一般的なものに向けられがちです。言い換えれば、単純化されたイメージとしての「苦悩」に、自らを埋没させることになりがちです。それは対象となる人にとって無礼であるだけでなく、問題解決としては極めて乱暴なものになりがちです。
かつて、バングラデシュの絨毯など繊維産業で児童労働が横行しているという理由で、アメリカの上院議員が議会に、児童労働によって生産されたバングラデシュ製品の輸入を禁止する法案を提出し、可決されました。その結果、バングラデシュの絨毯産業が打撃を受け、働いていた子どもたちが解雇されましたが、彼らの多くは重要な家計の担い手でした。そのため、貧困がより悪化し、あるいは児童売春などが増加したといわれます。これもやはり、「感傷」がもたらした、極めて乱暴な解決策の一つです。
苦悩する人間、あるいはそれがある社会というもののあり方に変更を迫り続けることは、必要な営為です。しかし、それは「そこに自らも関わりがある」という自覚がなければ、リアリティを欠いた善意の押し付けで終わります。遠い国の出来事に理解を至らせることは、なかなか大変です。とはいえ、そこを捨象して「感傷」だけで突き進んだものを現地の人に見せても、そこに対等の視線がない以上、現地の人たちが拒絶したこともうなずけます。当事者たちから受け入れられないものを、外部の人間だけが共感している。そこに、リアリティのない、イメージ化された苦悩に埋没しながらも、自分の問題とは思っていない人間の姿を見出さずにはいられません。翻って、これはアフリカニストたる自分自身にとっても、重い課題です。相手のことを考えたつもりの自分たちの善意や理念が、相手から拒絶される。私のそれほど多くない経験の中でも、そういったことは確かにあります。そこに「感傷」はないか。自分と相手とを包括する「連帯」があるか。「Kony 2012」をめぐる話題は、そんなことを思い起こさせてくれました。(おわり)
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