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2012-03-30 00:00
(連載)「Kony 2012」への拒絶を考える(3)
六辻 彰二
横浜市立大学講師
正確なことは、映画を観て怒った彼らに直接聞くことでしか分かりません。しかし、「Kony 2012」を観ていて、思い当たることは幾つかありました。第一に、確かに全面に出てくるのがアメリカ人の子ども、しかも製作者の子どもである点には、私も違和感を覚えました。冒頭で、製作者の子どもがアメリカのきれいな病院で生まれ、看護師たちに祝福されながら産湯につかる様子を描き、「この国で生まれたこの子は大事にされるだろう」といった主旨のナレーションがあり、その後しばらくして2003年当時のウガンダの情景を写した映像に進みます。製作者の子どもの誕生シーンが、ウガンダの子どもたちの状況との対比を暗示するイントロであることは明らかです。
確かに、平均的に言って、アメリカや、そして日本などの先進国で生まれた子どもの方が、開発途上国なかでもアフリカの貧困国で生まれた子どもより、健康状態や教育水準において恵まれることになる、というのは事実かもしれません。また、先進国で生まれた子どもが、兵士や性奴隷としてゲリラに搾取されることは、ほぼ皆無でしょうし、そういった問題を告発して先進国の視聴者から共感を得たいのであれば、自然なイントロなのかもしれません。しかし、両者の対比を敢えて強調することは、いわば対等の視線ではありません。ハンナ・アレントは、個々人が自らと他者を結びつけるエネルギーについて、以下のように分類しています。
「連帯(solidality)は活動を鼓舞し導く原理の一つであり、同情(compassion)は情熱(passion)の一つであり、哀れみ(pitty)は感傷(sentiment)の一つである」。このうち、アレントによると、「同情」は人間同士の間の距離を取り除くもので、他者の苦悩を我が物とすることですが、それであるが故に相手を認識したうえでなければ発揮できません。つまり、それぞれ特殊な個々人に対して生まれる感情であり、一般化することができない、言い換えれば不特定多数の相手には発揮できない能力である、というのです。これに対して、「連帯」と「哀れみ」は人間の間の感情的距離は保つという点で共通しますが、両者は「弱い人々」の捉え方において決定的に異なります。「連帯」は、例えば「人間の尊厳」といった誰にでも適用できる利害あるいは理念で、複数の人々を、つまり強い人も弱い人も、豊かな人も貧しい人も概念的に包括し、一般化します。これに対して、「哀れみ」は「運と不運、強者と弱者を平等の眼差しで見ることができない」。
「Kony 2012」の製作者たちが、この三つのエネルギーのどれに駆られてこの映画を作ったかは、定かでありません。しかし、少なくとも不特定多数の人に訴えかける内容で、さらに先ほどの「アメリカの白人の子どもとウガンダの子ども」の対比は両者の差異を強調するものであり、少なからず「哀れみ」が強いように感じられます。しかし、往々にして先進国の人間は、特に欧米人は忘れがちのようにみえるのですが、アフリカ人も当たり前の人間です。そして、およそ自尊心のある人間にとって、「自分たちが哀れまれている」と思うことが愉快であるはずはありません。その映像が、無意識のうちに自分たちの優位を確信している先進国の人間だけを相手にするだけならいざ知らず、当のウガンダ人たちから「無神経」と言われたことは、故のないことと思います。(つづく)
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