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2012-02-05 00:00
(連載)森喜朗元首相の自民党批判(2)
酒井 信彦
日本ナショナリズム研究所長・元東京大学教授
田中角栄はどうして自民党総裁になることができたのか。それは実弾の力だけでは決してなかった。それは外交問題と密接に関連し、マスコミが扇動した田中ブームが起きたからである。今からちょうど40年前の昭和47年(1972年)、戦後の世界史における一大転機が訪れた。それが2月のアメリカ大統領・ニクソンによる、中華人民共和国訪問である。その20年前、朝鮮戦争で血を流し合い、その後も厳しく対決していた両国であったから、世界中に衝撃を与えた。
特に慌てふためいたのが日本で、以前から課題とされていた、日本と中国との国交成立問題が、俄然脚光を浴びることとなった。この国交問題について、慎重な姿勢を示していたのが福田赳夫で、積極的であったのが田中角栄であった。そのために引退を表明した佐藤栄作を継ぐ、次期の自民党総裁選びに際して、朝日新聞を代表とする親中マスコミは、田中角栄を「今太閤」と囃し立てて、全面的に応援キャンペーンを張ったのである。かくして7月5日、党大会で田中は自民党総裁に選出された。
田中は9月25日に中国を訪問し、同29日に国交を成立させた日中共同声明に調印した。つまり7月7日に田中内閣が成立してから、3ヶ月にも満たない、驚くべき拙速外交であった。特に最大の失敗は、日中共同声明に「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えてことについての責任を痛感し、深く反省する」と言う文言を盛り込んだことである。日中国交成立に慎重な福田が、1972年の時点で首相になっていたら、かなり違っていたであろう。ニクソン訪中にも拘わらず、アメリカが中国と国交を結ぶのは、かなり後の1979年1月のことである。中国にのめり込んで行った田中は、却ってアメリカに警戒され、ロッキード事件を仕掛けられて、失脚することになるのは、まことに皮肉であった。
日中国交成立からちょうど10年後の昭和57年(1982年)に第一次教科書事件が勃発した。教科書検定において、「侵略」を「進出」に書き換えさせたと報道され、中国が抗議をしてきたが、その際に根拠としたのが、日中共同声明であった。それは全く事実に反する報道であったにも拘わらず、宮沢官房長官によって「近隣諸国条項」が作られて、以後歴史問題によって、日本人が中国に精神的に隷属させられる体制が、築き上げられることとなった。つまり今から40年前の田中内閣の成立こそ、日本没落の出発点であるといって、決して過言ではない。したがって日本人が現在の没落状態から脱却するためには、迂遠なようでも、この40年間の歴史を徹底して回顧して、その真実を究明することから、始めなければならない。(おわり)
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