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2011-10-25 00:00
(連載)「アラブの春」「ロンドン暴動」「ウォール街占拠」の異同(3)
六辻 彰二
横浜市立大学講師
二大政党制が定着している国では、政権交代によるドラスティックな方針転換が、制度上は可能です。とはいえ、現実には大企業や組織力のある労働組合など、特定の社会勢力の発言力は、政権交代があっても容易に衰退することはありません。政権が交代しても大きな変化がないなかで、議会制民主主義そのものに対する不満が鬱積したとしても、不思議ではありません。貧困や格差といった社会的病理を緩和しなければ、社会そのものに大きな混乱をもたらすことは不可避です。その意味で、完全に撲滅することは困難であるにせよ、その状況を改善することは、どの国にとっても焦眉の課題です。
しかし、ここで注目したいのは、「多数者」であることをアプリオリに「正しい」と規定することの危険性です。少なくとも近代の議会制度のもとでは、多数決の原理は「多数者の意見で決議をとる」という、いわばゲームのルールにのっとったもので、そこに道徳的な正しさがあることは保障されていません。18世紀以前の内乱が絶えなかったイギリスで、「叩き割った頭の数が多いほうが物事を決めていた」のが、「生きている頭の数の多いほうが物事を決められる」ようになった点で、議会制民主主義がもつ歴史的意義は否定できません。また、「少数派が正しくない」と決め付けないことが、議会制民主主義そのものを生きながらえさせてきた利点でもありました。しかし、それは一歩誤れば、「数さえ集まればそれでいい」という「数のゲームの罠」にはまり込むことを意味します。
いずれにせよ、選挙や議会で多数者が優先されるのは、「多数者に支配を任せる」というルールを社会が受容しているからであり、それは「多数者」であることが「正しい」ことを保障するものではありません。むしろ、「多数者が絶対に正しい」と捉えたがゆえに、「多数者の主権」が容易に「多数者の専制」に陥り、「少数者の権利」を侵害したことは、多くの革命でみられたことです。数の多さにだけ依存して、自らの正当性を主張することは、結局のところ議会制民主主義が容易に陥りがちな、「数のゲームの罠」にはまりこむことです。にもかかわらず、ウォール街に集まる人々は、きわめてナイーブにこの点を見過ごしているように思われます。議会の場でなく、街頭で多数派であることが「正しい」というルールを、社会が受容しているとはいえません。その意味で、もしウォール街の抗議活動が何らかの正義を模索するのであれば、「多数者」に頼らない、より真摯な考察が求められるといえるでしょう。
とはいえ、多数派であることに安住する傾向は、我々の日常生活でもありふれた光景です。どこだかの自動車メーカーが、「一番売れているのが、一番いい」という主旨の、およそ自律性からかけ離れたコピーで自動車を販売しているのは、その典型です。もちろん、自律性を欠いているのは、「売れたものがいいもの」と思っている側だけでなく、「売れているから、いいんだろう」と思う側も同様なのですが。情報が氾濫すればするほど、より簡便な指標を求めたがる心理は理解できるとしても、それは本来、「いい」とか「正しい」といった価値基準と無縁であるはずのものです。その価値基準を見直すことが、「多数者」に安住して「少数者」を排除することのない社会をつくるうえで、不可欠のことだといえるのです。(おわり)
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