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2011-07-27 00:00
(連載)「神々の闘争」から「神々の共存」へ(1)
六辻 彰二
横浜市立大学講師
およそ100年前の1917年に、マックス・ヴェーバーはかつて宗教がもっていた絶対的な価値基準が、近代以降に衰退し、多様な価値観が交錯する状況を指して、「神々の闘争」と呼びました。その一方で、あるいはその論理的帰結として、ヴェーバーは「価値の自由」を強調しました。つまり、それぞれが「神」に等しい価値観をもち、それらがお互いに(ほぼ絶対に)相容れない状況のなかで重要なことは、各人がいかなる価値観を持つことも尊重するべき、という意味です。ここに、ヴェーバーの古典的リベラリストとしての側面をうかがうことができるでしょう。
ただ、その一方で、ヴェーバー自身が認めているように、お互いに共感も理解もし合えないという前提でしか他人と付き合えず、そのなかで「神々」がその覇を争う状況は、多分にストレスフルです。しかし、それに耐えて「価値の自由」を守ることが重要だ、というのがヴェーバーの立場でした。ヴェーバーの立場は、峻厳な大学者らしい、決然としたものだったと思います。そして、これは価値観に囚われない、「科学」としての社会科学を切り開く大きなステップになったということも、また確かです。
しかし、同時にヴェーバーの主張を推し進めれば、価値というものは常に相対的なものとなり、社会のなかで個々人はお互いに有機的な結びつきを期待しても無駄ということになってきます。ヴェーバー自身は、「それがよい」と明言したわけではありませんが、彼の主張そのものは「そうでしかあり得ない」ということになってきます。ただ、念のために付け加えておけば、ヴェーバーの意図は「科学の『明晰さ』による没価値的呪縛からの解放にあった」と指摘する論者もいます。
いずれにせよ、お互いに共感も理解もし合えない諸個人の間では「価値の自由」のみを唯一の原則として付き合うしかないというのは、近代社会に生きる者の宿命なのかもしれません。しかし、それは孤高の大学者には耐えられることでも、ほとんどの人間には耐えられないものです。ヴェーバーの主張から20年も経たない間に、当のドイツで、ワイマール共和国の原子化した国民が、ヒトラー率いるナチスを選んだことは、その証左です。(つづく)
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