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2011-07-07 00:00
独りよがりな日本人の日本文化論
吉田重信
china watcher 研究所主幹
われわれ日本人は外国とつきあう過程で「日本とは何か」について長い間自問してきたようである。他者との接触において自己のアイデンティを問うこと自体は健全であると思う。しかし、その作業の中で、自己を過剰に美化したり、あるいは卑下したりするのは、不健康である。まして、他の民族を上に見たり、下に見たりするのは、もっと弊害がある。要するに、自己をきちんと評価することは難しいのだ。ところで、過去150年もの間、つまり、日本が欧米諸国と本格的に付き合い出して以来今日まで、われわれ日本人は、世界の一流民族であるか、あるいは四流民族であるか、について懊悩し、その心理は定まらずに、揺れ動いてきた。
とりわけ、日本が1945年、歴史始まって以来の敗戦と外国の占領という危機的事態を味わってから、日本人には「四流民族」意識が強まったようである。その後日本の経済発展もあって、日本人の自己卑下意識は緩和されたものの、日本人の自信のなさは、相変わらずであるように思われる。なぜならば、日本人には、外国人や日本人が書いた日本賛美論を喜ぶという風潮が強いからである。たとえば、鎖国時代に日本の文化の高さについて報告した西欧のキリスト教宣教師たち、明治時代に日本の美術を再評価したフェノロサ、日本の文化を愛でたラフカディオ・ハーン、戦後は日本の文学を評価するドナルド・キーン、『ジャパン・アズ・ナンバーワン』を説いたエズラ・ボーゲルなど、要するに、日本人は日本を褒めてくれる外国人が大好きなのである。最近では、日本人でも『日本の誇り』などと称して、日本を賛美する著作を書く者が後を絶たずに流行している。
しかし、これらの日本人の手になる「日本賛美論」を読むと、画田引水的で、自己満足的な言説に終始し、およそ批判精神が感じられない。中には、歴史的事実を捻じ曲げても日本の過去の行動を弁護したりしている。彼らは、「愛国主義者」を自称しているけれども、筆者によれば「偏狭な愛国主義者」に過ぎず、とうてい海外(とりわけ、日本の対外政策の犠牲になった中国や朝鮮半島の民族の)理解をえられそうにないと考えられる。筆者は、このような自称「愛国主義者」たちの自己弁護の心情は理解するが、批判精神を欠く自己賛美論に浮かれる日本人の風潮を誇る気持ちにはなれない。もし、哲学的思考において定評のあるフランス人やドイツ人がそれぞれの民族や文化がいかに優秀であるかなどと力説したり、自己を弁護、礼賛したりすれば、フランス人やドイツ人の資質そのものを疑わせる材料となるだろう。かつてのナチス・ドイツがドイツ民族自賛論を喧伝したことは、記憶に新たである。むしろ、筆者は、1920年代に『西洋の没落』を書いて、西欧文明を批判したドイツ人、シュペングラーの知性にこそ感服するのである。
日本人が英語で海外に発信した「日本文化論」は、少数ながらあるにはある。たとえば、鈴木大拙の『禅の研究』、新渡戸稲造の『武士道精神』、岡倉天心の『茶の本』などである。しかし、これらの所説は、いずれも日本文化の特殊性を説くことに終始し、西欧文化との比較とか、普遍的な立場から日本文化を論じるものではなかった。これらと比較して、1920年に中国の文人学者、林語堂が英文で書いた『中国=文化と思想』(MY COUNTRY AND MY PEOPLE)は、中国文化を西欧文化との比較において捉え、また、中国文化の欠点についても率直に批判するという姿勢が、欧米の知識人の好感を得たようである。日本人が書いた日本文化論よりも、林語堂の中国文化論の方がもっとコスモポリタン性があると考えるゆえんである。
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