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2009-11-11 00:00
ケインズの「バンコール」とポラークの「SDR」
池尾 愛子
早稲田大学教授
『ニューパルグレイブ』という経済学大事典がある。昨2008年に新しい版が作成され、オンライン契約版も利用可能になった。この新版では消えたが、前の1987年版には「ポラーク(Polak, Jacques Jacobus, 1914-)」の項目があった。執筆者はS・C・ツィアングで、この項目を読むと両者はともに国際通貨基金(IMF)で働いていたことがわかる。ポラークはオランダ出身で、国際連盟時代にJ・ティンバーゲン(オランダ、第1回ノーベル経済学賞受賞者の1人)と共に景気循環の国際伝播について研究するなどしたのち、国際連合傘下に誕生したIMFに移籍したのであった。そして「彼は1960年代半ば、IMF高官として、特別引出権(SDR)の創案に深く関与した。SDRは『バンコール』というケインズの示唆に由来し、基金の貸出能力を大いに拡張した」という一節が注目を引いたのである。これを読んで色めき立った経済学者たちは、「20年ルール」「30年ルール」(重要資料は20年後あるいは30年後に公開する)を意識しながら、ポラークからその当時の経緯を詳しく聴きだそうとして、論文やエッセイの執筆を依頼したり、国際会議に招待したりしたのであった。彼は原則として断ることなく、全ての依頼を引き受けたと聞く。しかし、ツィアングの叙述は否定しなかったものの、SDR創出の一件については沈黙を守ったまま、2004年に永久の眠りについた。
「バンコール」は、経済学者ケインズらイギリス代表団が1944年のブレトン・ウッズ会議の折に提出した「国際清算同盟案」(1943年4月8日)に登場する。ケインズたちは、各国の中央銀行を束ね、信用創造機能を有する国際中央銀行の創設を構想し、政府間通貨として「バンコール」を位置づけようとしていた。この点についてだけは、財務官僚ホワイトらアメリカ側の「連合国安定基金と、連合国および準連合国再建のための銀行案」(いわゆるホワイト原案)でも、与信能力のある機関の設置が構想され、国際準備となる「ユニタス」が提案されていたようなので、両提案の数少ない共通点であったようだ。しかし、ホワイト原案は、主にアメリカ国内やイギリスの経済界からの意見により、修正が施され、「連合国国際安定基金予備草稿案」(いわゆるホワイト修正案)となった。会議の結果できあがった国際金融機関の一つは、銀行ではなく短期資金を融通する基金IMFであった。IMFの目的の一つは、金との交換性を保った米ドルに他国通貨をリンクさせた固定為替相場制を維持して通貨・金融の安定を目指すことであった。そして同時に、戦災からの復興とその後の開発のための長期資金を提供する機関として国際復興開発銀行(IBRD)が創設された。
ツィアングは触れなかったが、1960年代に国際通貨の議論をリードしていたのは疑いなく、『金とドルの危機』(1960)の著者で経済学者のロバート・トリフィン(ベルギー出身、米エール大学、1911-93)であった。アメリカの経常収支の赤字が継続し、金価格の上昇とあいまって、大きな問題とみなされていた。金との交換性が信任の基礎となり、米ドルという流動性に対する世界的需要の増加もあった。それゆえ、米ドルという一国通貨が国際通貨の役割も果たすことに原因を見出し、一種の構造的問題であると彼が捉えたことから、これは「トリフィンのジレンマ」として知られるようになる。トリフィンがその解決策として、世界通貨「新バンコール」を提案していたのであった。1967年秋のIMF総会でSDRの創設が決議され、IMF協定の改訂が進み、加盟国の批准を受けて、1969年にIMFはSDR創出に踏み出した。SDR1単位の価値は1米ドルに相当する金表示で示された。ここまで、ポラークが深くかかわったと推察される。
トリフィンとポラークの間で激論が闘わされたという噂があり、またなぜ外貨との引換権であるSDRという準備資金の創出という形に収まったのか、経済学者たちはその真相を知りたいと思い、残る関係者に機会を与えて語られるのを待ち続けたのであった。その過程の説明の一部は、村野孝(元東京銀行)監修『国際通貨体制の長期展望』(至誠堂、1972年)、村野孝「SDR造出過程の研究」(『国学院大学院紀要』第2輯、1972年)で与えられている。それは、かなり政治的なものであり、フランスとアメリカの対立が大きかったことがわかる。『国際通貨体制の長期展望』は、ケインズ案、ホワイト修正案、オッソラ提案(1965年)も収録し、半世紀にわたる国際金融史についての興味深い記録になっている。
SDR創出開始と同時に、SDR改訂準備が始まり、これは経済学者のフランコ・モディリアニ(米MIT)が担当したとされる。主要研究テーマに、変動相場制導入後のSDRの価値決定が入っていたはずだ。トリフィンの関心は、ヨーロッパでの通貨協力に移っていた。1973年に主要国が固定相場制から変動相場制に移行した後、SDRの価値は通貨バスケットの価値として定義されるようになり、その役割は減少した。ポラークらIMFスタッフたちは1960年代末には、国際金融に関するデータの一層の収集と統計分析、計量モデルの構築などに新たな任務を見出し、すぐにそれに取り掛かっていたといってよい。その背景には、コンピュータとソフトウェアの発展があり、まもなく、オイル・マネーなど資源マネーの動きが注目されることになる。アカデミック・エコノミストたちが行う計量分析も1960年代後半に大きな変化のプロセスに突入しており、とくに金融分野が大きく変貌を遂げていくことになる。個人の自由がある国では、経済学者にとってIMFやSDRの改革を提案することも自由である。そうでない場合、国際経済機関の改革提案はどういう意味を持つのだろうとふと思案することがある。アカデミシャンとしての交流には有意義なことも多いと思う――もっとも、研究が犠牲にされるのならば、交流は空虚で単なる時間と資金の浪費となる。
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