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2009-07-01 00:00
(連載)ベルリンに消えた壁を思う(2)
岩國哲人
衆議院議員
一九六三年の七月にケネディ大統領が金利平衡税という方法で米国金融市場を封鎖し、実質的に日本の企業を締めだし、日本経済にパニックが起きた。資本不足の日本は、資本を求めて欧州を目ざさなければならない。世界の金融機関は一斉にロンドンに事務所や支店の開設準備に入り、私も一九六七年にロンドンに赴任した。多くの企業が一番乗りを争っている時、起債主幹事を引き受けた私たちモルガンと日興証券の代表者に、武田薬品の武田長兵衛社長がこう言われた。「ヨーロッパの投資家が、武田の決算を日本式だけでなく、外国式でも発表してくれ、というのは当然のことだ。私は受け入れることにする。日本を代表して第一号となる以上、外国の金融機関の期待に必ず応える」と。
七月のケネディの封鎖宣言からわずか二か月後の、偉大なる大阪商人の果敢な決断だった。第一号となった武田薬品の外債発行は、その後発行された日本と欧米企業の外債のお手本となり、封鎖されている米国市場をよそ目に、ヨーロッパから大量の資金が日本に流入する先導者となった。一人の経営者の決断と強い責任感が日本の経済を救ったと言えるだろう。
歴史を政治の眼ではなく、経済の眼で斬ってみるなら、米国の重要な世界経済独占の拠点であり、税源でもあったウォール街の力は、相対的に弱まることになった。米国の通貨であるドルを「ユーロ・ダラー」と名を変えて欧州に提供し、自由で国境のないユーロ市場の誕生と発展を促した。「国境なき金融市場の一体化」「国境なき経済の一体化」そして欧州共同体(EC)を誕生させた。更にはそのECがEU(欧州連合)へと発展していくことになった。これは、ケネディの全く予想もしなかったことだろう。
春秋の筆法をもってすれば、ケネディはベルリンのウォールを崩し、米国に金融のウォールを築き、そしてウォール街の地位を崩した、とも言える。その金融のウォールも撤廃され、自由な市場が復活したのは一九七四年のことだった。私が訪れた三月のベルリンでは、ドイツ議会と『悪の枢軸』と米国が名指すイランの議会の間で経済、貿易、投資活動の自由化をめぐっての熱い討議が連日行われていた。核兵器をめぐっても、イランの核兵器開発方針がどう決定されるかも注目されていた。非核主義を国の基本方針として貫くドイツと、核兵器疑惑に悩まされるイランとの大きな壁が崩れる日も来るのだろうか。ドイツとイラン、ここにも唯一の被爆国日本の出番があるのではないか。(おわり)
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