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2009-06-25 00:00
(連載)ベルリンに消えた壁を思う(1)
岩國哲人
衆議院議員
ドイツの首都ベルリンを三十年ぶりに訪れた。三月のベルリンはまだ春には遠く、雪空の風景が、ブランデンブルグ門をはじめ、ドイツの歴史の栄光と悲惨をすっぽりと包んでいた。米ソ対決、東西の冷戦の象徴とされたベルリンの壁が、共産主義社会と資本主義社会を峻別し、人の自由な往来を厳しく制限していた頃、私は二度その壁を越えて東ドイツを訪れたことがある。その壁も今は全く面影をなくし、運転手やガイドがそれと教えてくれない限りは、その遺跡にも気が付かないほどである。
第二次世界大戦後、ドイツは米・英・仏占領地域を基礎とする資本主義体制を採った西ドイツとソ連占領地域を基礎とする共産主義体制を採った東ドイツに分断された。東ドイツに囲まれていたベルリン市は、さらに国としてのドイツの東西分断とは別に、ベルリン市としても東西に分断されるという悲劇におかれた。東ドイツと西ベルリンを隔てる「ベルリンの壁」は、まさに戦争でもなければ平和でもない「冷戦」の象徴そのもので、「鉄のカーテン」という言葉とともに、決して超えることのできない障害や永久になくなることのない大きな障害のたとえとしても使われた。
一九六三年六月二十六日、西ベルリンを訪問したアメリカのケネディ大統領は、有名な「`Ich bin ein Berliner` 私はベルリン市民である」、「すべての自由な人間は、どこに住んでいようと、ベルリン市民である」と語り、ドイツの戦後史での名セリフとしてドイツ国民に長く記憶されることになった。ケネディのベルリン訪問とその演説は、冷戦緩和、東西雪解けへの流れをつくり、それから三十年後、一九八九年十一月九日、東西ベルリン市民の歓喜の渦の中で、ベルリンの壁はついに崩壊のときを迎えた。
その崩壊の様子は、リアルタイムで世界に配信され、歴史の大変動に世界中の人々が感動したのは、つい二十年前のことである。ベルリンの壁を崩すきっかけを作ったケネディではあるが、彼は大統領在任中にもう一つの壁を作り、もう一つの壁を崩している。故ケネディ米大統領の最大失策は、「金利平衡税」。アメリカのカネを外国には使わせない。ウォール街を高い税のウォールで囲い込む新法で、米国資本市場は鎖国時代に入り、代ってロンドンが脚光を浴びることになった。(つづく)
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