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2009-05-21 00:00
1945年以降の社会科学の変貌
池尾 愛子
早稲田大学教授・デューク大学シニア・フェロー
5月1-2日に、デューク大学で開催された国際会議「1945年以降の経済学と隣接社会科学」に出席した。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス・アンド・ポリティカル・サイエンス(通称LSE)の後援で、イギリスとフランスの研究者が「1945年以降の社会科学」をテーマにして共同組織するセミナー・シリーズが数年前から始まっていた。それを基にして、アメリカでの研究会議にこぎつけたのである。そのため、論文発表者は、社会科学全般の歴史や方法に関心をもち、ヨーロッパか北米を拠点に活躍する研究者たちに限られた。会議では、1941-45年という時期を境界にして、社会科学全般が大きく変わったという共通認識が示された。つまり、社会科学においても、科学の応用という実践的な重要性を帯びるようになり、さらに、統計学・数学の利用の推進による「形式化」という特徴をそなえるようになったのである。
とはいえ、経済学では、1940-50年代に数学や統計学の利用が加速度的に進んだため、それ以外の社会科学と比べると、「形式化」の進展状況が著しく異なっていた。しかし、統計学の応用が廉価なコンピュータと優れたソフトウェアの普及とともに徐々に社会科学全般に広がったのである。さらにゲーム理論の応用が進んだので、それはあたかも「経済学帝国主義」であるかのような印象ももたれていた。実践的重要性には戦争と冷戦が絡むので、安定した社会の正常な状態に注目する分野と、そうではない分野に二分しておくのが便利である。
後者では、精神病理学が注目を浴びた。戦地に赴いた兵士の負傷は外傷だけではなく、精神的・心理的な負傷者も発生したので、それに実践的に対応する必要性が高まり、成長分野となったのである。前者については、社会学で安定した社会の構造を理解することが追求されるのに対して、経済人類学では「非発展・未開発」の(停滞)社会の価値に注目されることが興味深かった。人類学によって、非西洋社会の理解が試みられたのである。両者に絡むものに、アメリカの現代化理論がある。その応用でインドシナ社会の現代化を図ろうとしたものの、カンボディア、ラオス、ヴェトナムで「反乱」が起こって失敗したこと(1965-75年)が、フランス人によって論じられた。アメリカでの会議であったので、アメリカ社会科学にウェイトがかかったのかと組織者の一人に尋ねると、そうではないはずだ、との反応が返ってきた。
会議の主役はどちらかといえば経済学の隣接科学であった。経済学の場合、非正常な状態が発生したり、継続したりすることがあるので、研究が進むのであろう。終戦直後には、各地での経済再建が経済専門職(経済学者・公的部門エコノミスト)たちにとっての第一課題であった。この時点では、「経済発展」は遥かかなたの朧な目標にすぎなかった。国連傘下に、アジア極東経済委員会(ECAFE)(現アジア太平洋経済社会委員会、ESCAP)が設立されていたことなどは指摘したものの、本会議での議論の枠組みには入れにくそうである。ECAFE本部は1947年設立当初は上海に置かれたが、1949年にはバンコクに移されたなど、複雑な事情もある。
本プロジェクトは、「1945年以降、社会科学全般が大きく変わったはずだ」という事前の共通認識から始まっていた。より具体的な変化の開始時点として会議で上がってきたのは、「原子爆弾の投下」、「焼夷弾の投下」、「真珠湾攻撃」で、いずれもアメリカと日本が関係する事柄である。ヨーロッパ戦勝国とイスラエルの研究者たちの社会科学史観が遠慮なく提示されたのかもしれない。会議にはドイツ、イタリアからの参加者はおらず、論文発表者たちがどれほど日本人参加者を予想したかはわからない。会議で発表された論文は査読を経て論文集に収録される予定である。会議録は社会科学者にとって一読の価値をもつことであろう。
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