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2009-05-19 00:00
権力と一体化する日本人の傾向
入山 映
サイバー大学客員教授・(財)国際開発センター研究顧問
袖井林二郎氏が、第二次大戦敗戦後の日本人からマッカーサー司令官に50万通とも言われる手紙が殺到した例などを引きながら、「日本人は、権力者と対決することなく、一体化する」と解説している(5月16日付け朝日新聞夕刊)のは面白かった。この民族特性(?)が、実はどの民族も大なり小なり持ち合わせているものなのか、それともわが国民だけがひときわその傾向が強いのかについては、他日他の碩学に意見を聞いてみなければ解らないが、この袖井氏の指摘する日本人の傾向は確かに省みて思い当たる節も多いし、さらにこの一体化の延長線上でとらえてみれば、少しでもそこから樹液を吸い取ろうとする寄生樹のようなふるまいも不思議でもなんでもない。まして「道義的に許されない」などと興奮しても、始まらないことがよく解る。
ここでいう「対決する」というのは、何もまなじりを決して白鉢巻きで刀を抜き合わせる、という意味ではなく、距離を置いた他者として認識し、相手を観察する、差異を分析する、状態の改善に向けて説得する、必要なら打倒もする、と考えると気が楽になる。そうではない二項対立が、どのような事態に導くかを考えてみれば、その違いは明らかだろう。「権力者としての官僚機構」(残念ながら日本では「公僕としての官僚機構」というのは絵空事のように思われる)と「市民」の対立としてこのコンテキストを読めば、なぜ日本で市民社会が生育する風土がいつのまにか消え失せてしまったかが明らかになる。権力者に対してそんな迂遠な処方を採用するよりは、うまい汁を吸う方策に集中する方が楽だし、居心地がよいからだ。
戦争直後の異常事態は別にして、「権力者」なるものがその基盤を「市民」に持たざるを得ない、という事実に思い当たれば、その感は一層深くなるだろう。ついでにいえば、そうした異常事態にあってさえ、世界の各地で「対決」の姿勢が見られるのも、周知の通りだ。「権力者」を利用しよう、意のままに操ろうというスタンスも、選択肢の一つではある。しかし、これは結局権力に絡めとられるか、逆に利用されることに成り果てるのは、世の「政商」あるいは「御用学者」を見ていれば明らかだ。画一的な価値観の中で、能率と効率だけが問われるシステムにあっては、それなりの優秀さを示した官僚機構が、前提条件の激変に遭遇して、全くの無力・非力をさらけだしつつも、なお権力にしがみついている今、われわれも権力と穏やかに対立する方法を考えてみたいものだ。その方法が既に目の前に存在していればなおさらのことではないか。
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